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2014/09/07 7:48

2014/09/07

国連安保理非常任理事国として発言権を確保する事は重要です。ある二国は非常に嫌がるでしょうが。バングラデシュが立候補を取り下げ、日本支持を表明した事に感謝します。ハシナ首相は、父・ラフマン初代大統領が国旗を「日本の日の丸を参考にした」 と証言した方です。—《日本、非常任理事国当選確実に バングラ不出馬、安倍首相に表明》2014.09.06 産経新聞  【ダッカ=桑原雄尚】安倍晋三首相は6日午後(日本時間同日夕)、南アジア2カ国歴訪の最初の訪問国バングラデシュに到着し、首都ダッカの首相府でハシナ首相と会談した。ハシナ首相は来年10月の国連安全保障理事会非常任理事国選挙への立候補を取り下げ、日本を支持すると述べ、安倍首相は謝意を示した。両国は非常任理事国選でアジア太平洋枠の1議席を争っており、日本の非常任理事国当選が確実となった。  首脳会談後の共同記者発表でハシナ首相は「非常任理事国選で日本支持を喜んで宣言する。バングラデシュの立候補は取り下げる」と表明。安倍首相は「ハシナ首相が両国間の歴史的に良好な関係を踏まえて立候補を取り下げ、わが国への支持を決断したことを深く感謝し、高く評価する」と語った。  会談では、安倍首相が積極的平和主義の意義と集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定を説明したのに対し、ハシナ首相は日本の取り組みに歓迎の意を表明。両首脳は来年前半に外務次官級協議を実施することで合意した。「ベンガル湾成長地帯構想」に基づき、都市高速鉄道やエネルギー安定供給など4分野で協力を進めることでも一致した。http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140906/plc14090621180014-n1.htm

2014/09/07 7:06

2014/09/07

朝日新聞と反日左翼勢力が、朝鮮(当時)に続きインドネシア(旧蘭印)を狙い「慰安婦問題」の放火を続けています。スラウェシ(旧セレベス)については、当時この地域を管轄していた海軍の関係者が検証・反論されていますが、インドネシアの知識層には捏造歪曲が広まってきているとの事です。 — 《朝日新聞の「南スラウェシ慰安婦」報道への疑問》 2014.03.07 スラウェシ研究会  2013年11月28日(木)朝日新聞記事「慰安婦問題インドネシアの女性証言」を見て一瞬目を疑った。まったくあり得ない話である。これは朝刊の国際面の全面を使った特集記事である。朝日新聞もついに三流の週刊誌並みになったと哀れを感じる。さらに朝日はこのガセネタを英文で海外に配信している。朝日は国賊新聞になったのだろうか。記事は次のような序文で始まる。 「慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない。日本政府が約20年前、東南アジアへの波及を防ぐ外交を水面下で進めていたことを朝日新聞は報じた。1942年に日本が占領したインドネシアには、現在も「旧日本軍から性暴力を受けた」「慰安婦だった」と証言する女性がいる。被害状況さえ解明されないまま置き去りにされた彼女たちに行った今夏の取材を報告する。」 とまるで特ダネ並みの書き方である。  本文は3部に分かれていて、最初の「日本軍のテントに連行された」の項では、南スラウェシ州シンジャイ県 (Kab. Sinjai) の元慰安婦のインタビュー、次に「大きな建物たくさん小部屋」ではピンラン県 (Kab. Pinrang) の元慰安婦のインタビュー記事である。いずれも太平洋戦争中、日本兵らしき連中に強引に連れ出され、慰安所へ送り込まれたという内容である。どういう経緯があったのか、ご本人達にはたいへんお気の毒と言うしかないが、当時の日本海軍軍政下において、まったくあり得ない話である。  太平洋戦争勃発時点から70年以上が経過し、当時の状況を知る人も少なくなってきた。「従軍慰安婦」なる言葉が一人歩きして、戦地で慰安婦が軍隊組織に組み込まれ行動するような、奇想天外なイメージさえ与えてきた。そこで、具体的に一占領地のなかで軍政はどうだったのか、具体的に、占領地、南スラウェシ州の首都マカッサルの実態を検証し、昨年下記の資料を取りまとめた。占領地運営について参考にして頂ければ幸いです。 →「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/ianfu.html  繰り返しになりますが、太平洋戦争の時代、「従軍慰安婦」なる者は存在しなかったし、当時そのような言葉が使われた事実もありません。「従軍慰安婦」という言葉を創ったのは千田 夏光(せんだ かこう、1924 – 2000)というノンフィクション作家です。1973年、極左思想の自著『“声なき女”8万人の告発 従軍慰安婦』で日本軍の関与を強調するために「従軍慰安婦」という語を創りだした。事実ではないことを事実として虚偽記載したことが明らかになっています。  こうした例からも、「小説」を論拠にして問題を提起することが、いかに危険であるかが解ります。小説に頼らなくても、すでにちゃんと学術的な調査も行われています。ハサヌディン大学の教授が、南スラウェシで、大規模な聞き取り調査を行っています。現地語からンドネシア語に訳した、部屋一杯の膨大な資料があります。日本海軍の軍政は概ね良好で、日本海軍がいかに現地住民(婦女子を含めて)の安全を守り、その結果性犯罪も少なかったことが記されています。  まず、日本軍の敵はオランダ(蘭印)であって、インドネシアではありません。インドネシアの住民は日本軍の進撃を助けてくれました。北スラウェシの落下傘部隊長であった堀内豊秋海軍中佐が、原住民を非常に大切にし、日本人と平等に取り扱い、善政をひいた話は有名です。またマカッサルの敵国子女収容所長であった山地兵曹が敵国子女を守った話も有名です。オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していました。戦後の連合軍BC級戦犯裁判では、捕虜収容所、民間人収容所関係の方が一番多く逮捕され、処刑された者もいる。しかし南スラウェシカンピリの敵国子女収容所では、山地兵曹の収容者への扱いがよく、一人も戦犯者も出しておらず、逆に戦後、オランダ政府は山地氏に感謝状を贈っています。この話は戦後「白い肌と黄色い隊長」のタイトルで映画化されました。こうしたことから、日本海軍による組織ぐるみの犯罪は考えにくいです。実際に強制連行があったとすれば、これは想像に過ぎませんが、民間の慰安所経営者が、本来ならば慰安婦は島外の専門業者からリクルートすべきところを、厳しい海軍軍政管理の隙をついて、違法にスラウェシ島内で行っていたのかもしれない。 →「カンピリ敵性国婦女子収容所」 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/up/malino.html#yamaji  戦時中マカッサルの市長は山崎軍太氏でした。地方の分県監理官(市長、郡長などに相当)も日本人でした。山崎氏は戦後、BC級戦犯の容疑をかけられましたが、マカッサル市民からの請願で釈放されています。現住民も日本人も対等であるという状況の中で、地方に駐屯する日本兵が現地女性と結婚したケースもあったようですが、軍がトラックで、自らが管理する地区の女性を拉致して云々ということはあり得ない話です。東京で都知事が東京に住む女性を拉致して、慰安所に送るでしょうか?  下の表は島内各地セレベス民政部 政務部4課 地方課が管轄するセレベス島内の分県一覧である。島内すべての地域に日本人の分県監理官が配置されていた。分県監理官は分県地域を監理し、また地域の王族と民政部との間では緊密に連絡・指示が行われていた。その地域で事件があれば直ちに民政部に報告する体制にあった。 図表:太田弘毅「海軍南方占領行政の機構系統の変遷」(日本歴史1977年1月号) →「スラウェシの寛大な海:祖父からの贈り物」 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/yamazaki.html  マカッサルにはインドネシアの独立を支援する特務機関「花機関」があり、興亜専門学校(現亜細亜大学)等で、インドネシア語を学ぶ学生が大量動員され、日本の青年とインドネシアの若者とが寝食を共に生活をしていた。こうした人達の中には、戦後インドネシアの独立戦争に加わる人たちもいた。また日本海軍は、藤山一郎氏とその楽団を日本から呼び、マカッサルを拠点にして、島内各地を廻り、現地の人達に、植民地時代には禁止されていたインドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」の歌唱指導などを行った。当時、第二南遣隊管轄区の島々(東部インドネシア)は、民度も低く、独立意識が薄かった。自分たちがインドネシアの一員である意識すらなかったという。だからこの意識を育てなければならなかった。藤山さんの歌の力で独立意識を育てて欲しいとの要請だった。 毎日新聞系のセレベス新聞社はマレー語(インドネシア語)の新聞 "Pewarta Celebes" (発行部数 マカッサル 3万部、メナド 2万8千部) を発行し、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙活動を行っていた。編集長はインドネシアの独立運動の中心にいた近藤三郎氏だった。 →「興亜専門学校生の太平洋戦争 -マカッサル花機関と吉住留五郎」 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/yoshizumi.html →「藤山一郎さんのマカッサル」 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/fujiyama.html → インドネシア独立戦争に参加した元日本兵 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/sugiyama.html  中央スラウェシ州バンガイ県に旧日本軍パイロットの記念碑がある。太平洋戦争の末期、日本の海軍航空兵、菊池敏和さん(当時19歳)の操縦する九七式艦上攻撃機が、飛行中、ガソリン漏れのエンジントラブルを起こし、中央スラウェシ州の東端に位置するバンガイ県の湿地帯に不時着した。親日的な村民達の協力が得て、エンジンを応急修理して無事帰還したという。戦争を礼賛するわけではないが、当時の日本軍と現地の方々との関わり様を知る上で貴重な記録である。 →「戦後60年ぶりの恩返し」ー元海軍航空兵“不時着”助けられた感謝の心込めー http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/kikuchi.html おわりに 「日本人らしき人達」に強制連行されたとされる南スラウェシの女性たちには、まったくお気の毒なことではある。しかし当時の海軍が、いかにしてアジアの朋友、現地住民(婦女子を含めて)を保護するか、気を配っていていた中、軍の関与などまったくあり得ない話である。そしてこのような報道は、当時命がけで働いた関係者に対する侮辱でもある。「従軍慰安婦」を捏造した朝日新聞が、今度はインドネシアにおける慰安婦問題に火をつけようとしているのだろうか? このようなガセネタが大新聞の国際面に掲載され、さらに英語で世界に発信され、おかしな誤解のもとになることを危惧する次第です。(文責:脇田) 参考資料 セレベス海軍民政部の概要 http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/asahi.html — (関連) 《「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー》 […]

2014/09/07 5:17

2014/09/07

クロマグロの保護と持続可能な利用の為、日本が科学的な根拠に基づきクロマグロ漁半減を提案、利己的で合理性のない韓国の抵抗を押し切る。世界の為に良かったです。後は如何に遵守させるか、そして東太平洋でも合意できるかです。—《日本のクロマグロ漁半減案、抵抗韓国を押し切る》2014.09.05 読売新聞  太平洋クロマグロの漁獲制限を話し合う「中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)」の小委員会は4日、参加する9か国・地域がそれぞれ2015年以降の未成魚の漁獲量を02~04年の平均より半分に減らすことで正式に合意し、閉幕した。  科学的な根拠に基づく日本の提案が、半減に抵抗する韓国を押し切った格好だ。さらなるマグロ資源の回復には、東太平洋でも合意できるかが焦点となる。  会議の議長を務めた農林水産省の宮原正典顧問は終了後の記者会見で、合意した半減目標について、「他の選択肢はなく、韓国も受け入れざるを得なかった」と強調した。  関係者によると、韓国の出席者は、「サバの巻き網漁でもマグロがとれてしまうので、目標達成は難しい」と主張。「マグロ漁は昼、サバ漁は夜の操業が一般的なので混じることはない」と日本側に矛盾点を指摘されると、答えに窮したという。http://www.yomiuri.co.jp/economy/20140905-OYT1T50058.html

2014/09/06 7:50

2014/09/06

西村幸祐氏より(コメントも) — 日本から帰国したインドのモディ首相は、訪印した豪アボット首相を迎え、豪からウラン輸入する原子力協定を締結しました。 人口12億人を抱え、高度成長に入るインドは今後の電力需要が逼迫しています。 オーストラリアがこのように異例の核拡散防止条約非加盟国にウラン輸出を解禁し、日本も原発輸出への道が開けました。 安全保障面だけでなく、エネルギー安保の側面でも、日豪印の連携が益々強固になっています。これも安倍外交の成果と言って過言ではありません。 なぜなら、安倍氏が2年前の首相就任翌日にプラハの言論プラットホームに発表した外交構想http://ow.ly/B9vLK 通りに、様々な妨害や可変的要素を乗り越えながら進んでいるからです。かつてわが国で、こんなことは戦前でもなかなかなかったことです。

2014/09/06 7:35

2014/09/06

来日したモディ印首相が、日本と共に英国と戦ったインド独立の英雄チャンドラ・ボースの同僚であった三角佐一郎氏(99歳)と面会した事を、インド政府とインド紙は大きく報道。日本のマスコミがなぜ大きく報じないのか、偏向だとネットでは批判の的に。日本の左翼メディアは、自らの歪んだ歴史観を国民に押し付ける為、インド首相の行為も思いも隠蔽し踏みにじる。私はこのモディ首相の姿に胸が詰まります。—《モディが日本で99歳のネタジの支援者と会った時》2014.09.02 IndiaToday ミーティングは貴重で強烈なものだった - 東京でインド首相はネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの99歳の同僚を出迎えようとひざまずいた。 火曜日にリリースされた写真に、三角佐一郎をじっと見つめ、温かく手を握りしめたナレンドラ・モディが写っていた。 「感動的な瞬間!インド首相がネタジの古い日本の仲間、99歳の三角佐一郎に手を差し伸べている」と外務省スポークスマンSyed Akabaruddinがツイートした。 この日早くに、日本の首都での会合で、モディは三角について、今でも鮮明にネタジに関するあらゆることを詳細に覚えている日本人男性がいると語った。 今回の会談はモディにとって、ネタジのかつての仲間との二度目の会談となった。 5月8日、114歳の元インド国民軍INA将校、Nizamuddin大佐は、下院選挙運動中にバラナシの集会でモディとステージを共有した。 モディは退役軍人の足に触れていた。 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは、第二次世界大戦中に日本による援助を得て英国と戦ったインド国民軍(INA)の創設者だ。 彼はフォルモサ(現台湾)の飛行機事故で死んだと信じられている。 台湾は墜落時、日本の占領下にあった。遺灰は東京に運ばれ、市内にある蓮光寺に納められている。 《When Modi met Netaji's 99-year-old aide in Japan》2014.09.02 IndiaToday The meeting was rare and poignant – an Indian prime minister kneeling down to greet a 99-year-old Japanese associate of Netaji Subhas Chandra Bose, in Tokyo. In a photos released on Tuesday, Narendra […]