朝日新聞と反日左翼勢力が、朝鮮(当時)に続きインドネシア(旧蘭印)を狙い「慰安婦問題」の放火を続けています。スラウェシ(旧セレベス)については、当時この地域を管轄していた海軍の関係者が検証・反論されていますが、インドネシアの知識層には捏造歪曲が広まってきているとの事です。
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《朝日新聞の「南スラウェシ慰安婦」報道への疑問》
2014.03.07 スラウェシ研究会
2013年11月28日(木)朝日新聞記事「慰安婦問題インドネシアの女性証言」を見て一瞬目を疑った。まったくあり得ない話である。これは朝刊の国際面の全面を使った特集記事である。朝日新聞もついに三流の週刊誌並みになったと哀れを感じる。さらに朝日はこのガセネタを英文で海外に配信している。朝日は国賊新聞になったのだろうか。記事は次のような序文で始まる。
「慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない。日本政府が約20年前、東南アジアへの波及を防ぐ外交を水面下で進めていたことを朝日新聞は報じた。1942年に日本が占領したインドネシアには、現在も「旧日本軍から性暴力を受けた」「慰安婦だった」と証言する女性がいる。被害状況さえ解明されないまま置き去りにされた彼女たちに行った今夏の取材を報告する。」 とまるで特ダネ並みの書き方である。
本文は3部に分かれていて、最初の「日本軍のテントに連行された」の項では、南スラウェシ州シンジャイ県 (Kab. Sinjai) の元慰安婦のインタビュー、次に「大きな建物たくさん小部屋」ではピンラン県 (Kab. Pinrang) の元慰安婦のインタビュー記事である。いずれも太平洋戦争中、日本兵らしき連中に強引に連れ出され、慰安所へ送り込まれたという内容である。どういう経緯があったのか、ご本人達にはたいへんお気の毒と言うしかないが、当時の日本海軍軍政下において、まったくあり得ない話である。
太平洋戦争勃発時点から70年以上が経過し、当時の状況を知る人も少なくなってきた。「従軍慰安婦」なる言葉が一人歩きして、戦地で慰安婦が軍隊組織に組み込まれ行動するような、奇想天外なイメージさえ与えてきた。そこで、具体的に一占領地のなかで軍政はどうだったのか、具体的に、占領地、南スラウェシ州の首都マカッサルの実態を検証し、昨年下記の資料を取りまとめた。占領地運営について参考にして頂ければ幸いです。
→「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/ianfu.html
繰り返しになりますが、太平洋戦争の時代、「従軍慰安婦」なる者は存在しなかったし、当時そのような言葉が使われた事実もありません。「従軍慰安婦」という言葉を創ったのは千田 夏光(せんだ かこう、1924 – 2000)というノンフィクション作家です。1973年、極左思想の自著『“声なき女”8万人の告発 従軍慰安婦』で日本軍の関与を強調するために「従軍慰安婦」という語を創りだした。事実ではないことを事実として虚偽記載したことが明らかになっています。
こうした例からも、「小説」を論拠にして問題を提起することが、いかに危険であるかが解ります。小説に頼らなくても、すでにちゃんと学術的な調査も行われています。ハサヌディン大学の教授が、南スラウェシで、大規模な聞き取り調査を行っています。現地語からンドネシア語に訳した、部屋一杯の膨大な資料があります。日本海軍の軍政は概ね良好で、日本海軍がいかに現地住民(婦女子を含めて)の安全を守り、その結果性犯罪も少なかったことが記されています。
まず、日本軍の敵はオランダ(蘭印)であって、インドネシアではありません。インドネシアの住民は日本軍の進撃を助けてくれました。北スラウェシの落下傘部隊長であった堀内豊秋海軍中佐が、原住民を非常に大切にし、日本人と平等に取り扱い、善政をひいた話は有名です。またマカッサルの敵国子女収容所長であった山地兵曹が敵国子女を守った話も有名です。オランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していました。戦後の連合軍BC級戦犯裁判では、捕虜収容所、民間人収容所関係の方が一番多く逮捕され、処刑された者もいる。しかし南スラウェシカンピリの敵国子女収容所では、山地兵曹の収容者への扱いがよく、一人も戦犯者も出しておらず、逆に戦後、オランダ政府は山地氏に感謝状を贈っています。この話は戦後「白い肌と黄色い隊長」のタイトルで映画化されました。こうしたことから、日本海軍による組織ぐるみの犯罪は考えにくいです。実際に強制連行があったとすれば、これは想像に過ぎませんが、民間の慰安所経営者が、本来ならば慰安婦は島外の専門業者からリクルートすべきところを、厳しい海軍軍政管理の隙をついて、違法にスラウェシ島内で行っていたのかもしれない。
→「カンピリ敵性国婦女子収容所」
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/up/malino.html#yamaji
戦時中マカッサルの市長は山崎軍太氏でした。地方の分県監理官(市長、郡長などに相当)も日本人でした。山崎氏は戦後、BC級戦犯の容疑をかけられましたが、マカッサル市民からの請願で釈放されています。現住民も日本人も対等であるという状況の中で、地方に駐屯する日本兵が現地女性と結婚したケースもあったようですが、軍がトラックで、自らが管理する地区の女性を拉致して云々ということはあり得ない話です。東京で都知事が東京に住む女性を拉致して、慰安所に送るでしょうか?
下の表は島内各地セレベス民政部 政務部4課 地方課が管轄するセレベス島内の分県一覧である。島内すべての地域に日本人の分県監理官が配置されていた。分県監理官は分県地域を監理し、また地域の王族と民政部との間では緊密に連絡・指示が行われていた。その地域で事件があれば直ちに民政部に報告する体制にあった。
図表:太田弘毅「海軍南方占領行政の機構系統の変遷」(日本歴史1977年1月号)
→「スラウェシの寛大な海:祖父からの贈り物」
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/yamazaki.html
マカッサルにはインドネシアの独立を支援する特務機関「花機関」があり、興亜専門学校(現亜細亜大学)等で、インドネシア語を学ぶ学生が大量動員され、日本の青年とインドネシアの若者とが寝食を共に生活をしていた。こうした人達の中には、戦後インドネシアの独立戦争に加わる人たちもいた。また日本海軍は、藤山一郎氏とその楽団を日本から呼び、マカッサルを拠点にして、島内各地を廻り、現地の人達に、植民地時代には禁止されていたインドネシアの国歌「インドネシア・ラヤ」の歌唱指導などを行った。当時、第二南遣隊管轄区の島々(東部インドネシア)は、民度も低く、独立意識が薄かった。自分たちがインドネシアの一員である意識すらなかったという。だからこの意識を育てなければならなかった。藤山さんの歌の力で独立意識を育てて欲しいとの要請だった。 毎日新聞系のセレベス新聞社はマレー語(インドネシア語)の新聞 "Pewarta Celebes" (発行部数 マカッサル 3万部、メナド 2万8千部) を発行し、インドネシアの人達の独立への意識を高める啓蒙活動を行っていた。編集長はインドネシアの独立運動の中心にいた近藤三郎氏だった。
→「興亜専門学校生の太平洋戦争 -マカッサル花機関と吉住留五郎」
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/yoshizumi.html
→「藤山一郎さんのマカッサル」
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/fujiyama.html
→ インドネシア独立戦争に参加した元日本兵
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/sugiyama.html
中央スラウェシ州バンガイ県に旧日本軍パイロットの記念碑がある。太平洋戦争の末期、日本の海軍航空兵、菊池敏和さん(当時19歳)の操縦する九七式艦上攻撃機が、飛行中、ガソリン漏れのエンジントラブルを起こし、中央スラウェシ州の東端に位置するバンガイ県の湿地帯に不時着した。親日的な村民達の協力が得て、エンジンを応急修理して無事帰還したという。戦争を礼賛するわけではないが、当時の日本軍と現地の方々との関わり様を知る上で貴重な記録である。
→「戦後60年ぶりの恩返し」ー元海軍航空兵“不時着”助けられた感謝の心込めー
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/kikuchi.html
おわりに
「日本人らしき人達」に強制連行されたとされる南スラウェシの女性たちには、まったくお気の毒なことではある。しかし当時の海軍が、いかにしてアジアの朋友、現地住民(婦女子を含めて)を保護するか、気を配っていていた中、軍の関与などまったくあり得ない話である。そしてこのような報道は、当時命がけで働いた関係者に対する侮辱でもある。「従軍慰安婦」を捏造した朝日新聞が、今度はインドネシアにおける慰安婦問題に火をつけようとしているのだろうか? このようなガセネタが大新聞の国際面に掲載され、さらに英語で世界に発信され、おかしな誤解のもとになることを危惧する次第です。(文責:脇田)
参考資料
セレベス海軍民政部の概要
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/mks/asahi.html
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(関連)
《「従軍慰安婦」問題について ー戦時中マカッサルの実態を検証するー》
2012.11.06 脇田清之
韓国の李明博大統領が、今年の8月15日の光復節(独立解放記念日)の式典で「従軍慰安婦問題について日本政府の責任ある措置を求める」と述べたという。また10月31日の国連人権委員会で、韓国、中国、北朝鮮が、旧日本軍の従軍慰安婦問題に言及し、「責任を認めて被害者を救済するよう人権理事会が勧告したにもかかわらず、問題を解決していない」(韓国)などと日本を批判したという。(日経夕刊2012年11月1日(木)2面記事より)
国連の会議で、何故、このような荒唐無稽な話が出て来るのか。なぜなら、太平洋戦争の時代、「従軍慰安婦」なる者は存在しなかったし、当時そのような言葉が使われた事実もないからである。明らかな点は、当時、朝鮮籍の娼婦が占領地に進出していたこと、そして、朝鮮籍の人が経営する慰安所があったことである。いま何故、「従軍慰安婦」が、日本との取引カードとして使われ、さらに、国連の場にまで持ち出されるのだろうか。そもそも娼婦を従軍看護婦、従軍記者、従軍画家などと同じステータスで扱うことなど考えられない。太平洋戦争勃発の時点からすでに70年を越え、太平洋戦争時代を知る人達も少なくなってきた。真実を理解するためには、当時の占領地の運営がどのように行われていたのか理解す必要がある。当時海軍セレベス民生部に勤務した粟竹章二氏の証言や、残された資料をもとに、日本海軍が太平洋戦争中に占領したスラウェシ島(インドネシア)西南端の都市、マカッサルでの当時の状況について振り返ってみたい。
当時のマカッサルの状況
太平洋戦争が始まって、2ヶ月後の昭和17年2月9日、日本海軍は数千人の兵力を投入し、スラウェシ島(インドネシア)西南端の都市、マカッサルを占領した。直ちに占領地を統治する体制がつくられた。数千人の軍隊(戦争末期には前線から撤退してきた陸軍を含め2万人に達した)が進駐した。占領地を長期的に統治・運営するため、食糧・物資を調達するため、商社(三菱商事、三井物産、太平洋貿易、石原産業、南洋貿易など)、銀行(台湾銀行)、開発拓殖関係(南洋興発、台湾拓殖、南洋拓殖、野村東印度殖産、麻生鉱業、清水組など)、海運会社(日本郵船、大阪商船、南洋海運、南洋海運、日の丸航運、大和航運、日東汽船など)、艦船修理、新造(小型木造船)のための造船所(播磨造船所、井関造船、新南興行、井関造船など)、新聞社(毎日新聞―セレベス新聞、現地向け広報誌プワルタセレベス)、放送局(MHK)といった占領地の運営に欠かせない基幹産業分野の企業が、海軍からの直接的または間接的な要請により進出した。セレベス新聞(毎日新聞系)は昭和17年12月8日に創刊され、発行部数は約8000部であった。この新聞社だけで、延べ100人を越える日本人が編集などの業務に携わっていたという。
宿泊施設・料亭・喫茶店・菓子店・遊戯施設などの業者も相次いでマカッサルへ進出した。ホテル・旅館(大和ホテル、富士ホテル)、料亭(浮島、霧島、敷島、大地、高砂、喜可久、大川隊)、居酒屋(なかゐ)、菓子製造・喫茶・レストラン店(銀座清月堂、二幸、三笠会館など)、映画(日本映画社、南星座)、日本酒、合成酒製造(林正宗、林兼産業)、ビリヤード場、バー、などである。要するに都市の機能維持に必要な、ありとあらゆる大、中、小企業が進出している。
マカッサルに海軍病院が開設され、日本赤十字社から大勢の若い看護婦がマカッサルに派遣された。現地住民の教育のため、多くの邦人が海軍教員として派遣された。海軍報道部員(従軍記者とも呼ばれた 戸川幸夫ほか)、従軍画家(伊東深水ほか)、声楽家(海軍嘱託 藤山一郎ほか)、歌手(森光子)等がマカッサルにやってきた。いずれも、海軍と契約を交わしての渡航である。終戦の時点で、海軍、陸軍、民間合わせて約2万2千人の日本人がこの地域に駐在した。(敬称略させて頂きました)
それでは問題の娼婦達はどこで働いていたのか。当時のセレベス新聞関係者が作成したと思われる「当時のマカッサル市内図」(下図)がある。この中には問題の慰安所の場所が明記されている。第1、第2、第3と書かれた場所である。こうした慰安所は、朝鮮籍の人達などにより経営され、娼婦は他島出身のインドネシア人が多かった。現在とは異なり、公娼制度が存続していた時代である。慰安所は民間業者によって運営され、海軍民政部が管理監督する立場にあった。民政部は衛生検査や悪質な業者に対する取締などを行っていた。そのほか、いくつかの料亭には日本人および朝鮮籍の娼婦がいたという。娼婦は業者が独自のルートで集められ、雇用されていたもので、海軍から給料または手当が支払われていた従軍看護婦、従軍記者、従軍画家などと同列に扱うことは出来ない。
しかし資料を丹念に調べて行くと“従軍”と取られかねないケースもある。ニューギニア方面の陸軍部隊は、戦況が悪化し、島伝いに西へ転進した。心の優しい日本人兵士は、孤島に残された娼婦を見るに見かね、同じ船に乗せ、ジャワ島へ送り届けたという。しかし「日本軍が娼婦を拉致して強制売春させた」などということは、あり得ない話である。
占領地における慰安婦について、過去に日本国内で出版された書籍の中にも誤った記述がみられる。「慰安所に働く妓たちは単なる売春婦ではなく、軍属という資格で日本から送り出されていた。(途中略)、いざとなれば戦闘に参加し、従軍看護婦の手助けをすることなども義務づけられていた」(戸川幸夫著 「戦場への紙碑」オール出版)。実際はどうだったのか。戦争末期、昭和20年3月ごろ、連合軍のマカッサル上陸が迫るなか、日赤の看護婦を乗船帰国させた。そのあと、マカッサル残留の民政部の女子事務員、商社のタイピスト、事務員、ホテル二幸の従業員など、日本人女性を全部集め、臨時看護隊を編成し、軍属に準ずる資格で病院などに配置した。そのとき,慰安婦は対象から外され、臨時看護婦として任務につくことは無かったという。
※ 戦時中、マカッサルの海軍民生部の職員として慰安所の管理・監督に関わった匿名希望氏によると、朝鮮系経営者による売春婦からのあくどい搾取が密告され、民生部が査察に入り、朝鮮系売春婦から大いに感謝されたこともあったという。
慰安所の実態について、マカッサルの例を紹介したが、インドネシアにおける他の日本軍駐留都市も、ほぼ同じような状況であった。「従軍慰安婦」などという荒唐無稽、日本人にとって不愉快な話が、一日も早く払拭されることを願う次第である。
追記 (2013年1月8日)
2013年1月5日産経ニュースに下記の記事が出た。
「安倍談話」 国益損なう歴史認識正せ
安倍晋三首相が歴史問題に関する日本政府の立場について、平成7年の「村山談話」に代わる未来志向の新たな「安倍談話」を発表する方針を打ち出した。「植民地支配と侵略」への「お詫(わ)びの気持ち」を強調した村山富市首相談話は政府の対中、対韓外交を萎縮させ、度重なる謝罪や非常識な賠償要求の要因ともなってきた。
謝罪外交を断ち切り、外交を立て直す上で、談話の見直しは不可欠な作業といえる。国家観にもかかわる正しい歴史認識を明確に示そうとする安倍氏の積極的判断を評価したい。 安倍氏は昨年12月31日付産経新聞の単独インタビューで、新たな談話を「21世紀にふさわしい未来志向」のものと位置付けた。国際社会に正確な史実を理解してもらうための努力は極めて重要だ。 村山談話は日本が「過去の一時期」に国策を誤ったと断罪した。だが、その時期については特定せず、「終戦の日」に唐突に閣議決定するなど、内容も手順も問題の多い談話だった。
以上が産経ニュースの主要部である。真っ当な主張であると思う。なぜなら;
・戦時中従軍記者として、大戦中に現場で取材した大作家、戸川幸夫氏でさえ、慰安婦たちの法螺話を真に受けて彼女たちは「軍属」だったなどと、誤った記録を残している。まして戦後数十年を経て、自称「元従軍慰安婦」だった人達の聞き取り調査の信憑性は、きわめて低い。その点で日本政府主導の「アジア女性基金」に対するインドネシア政府の対応は立派だった。志の低い学者や研究者が検証作業抜きで自説に取り込み、世に広めた責任は重い。
・「従軍慰安婦」という言葉を創ったのは千田 夏光(せんだ かこう、1924 – 2000)というノンフィクション(?)作家である。1973年、極左思想の自著『“声なき女”8万人の告発 従軍慰安婦』で日本軍の関与を強調するために「従軍慰安婦」という語を創りだした。事実ではないことを事実として虚偽記載したことが明らかになっている。さらにこの慰安婦問題を国際問題にまで発展させたのは吉田 清治(よしだ せいじ 、1913 – )である。自分の体験談をもとに日韓両国で講演会などを行い、強制連行への謝罪と日本政府への批判を行っていた。こちらも後に創作であることが判明している。これに関連する報道を主導した朝日新聞の責任も大きい。
・本文に記載したように、明らかな点は、当時、朝鮮籍の娼婦が占領地に進出していたこと、そして、朝鮮籍の人が経営する慰安所があったことである。その状況は現在も変わっていない。韓国人売春婦は世界に8万人、日本には2万人いると云う。韓国メディアは、「アルバイトを探していた韓国人留学生、結局は売春まで」「日本の人身売買の最多被害は韓国人女性」などと題し、日本で強制的な売春に苦しむ被害者を助ける非営利団体、ポラリスプロジェクトジャパンが東京で記者会見を開き、被害女性たちからのメッセージを公開したと伝えた。(韓国人留学生が日本で売春を強要、日本は人権後進国・・・韓国報道)
参考資料
呉 善花(O Sonfa)著 『虚言と虚飾の国・韓国』 ワック株式会社 2012年9月27日
『ウィキペディアフリー百科事典』 慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦
西村幸祐責任編集 『中学生にも分かる慰安婦・南京問題』(株)オークラ出版 2007年7月4日
大沼保昭著 『「慰安婦」問題とは何だったのか』 中公新書 2007年6月25日
慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策 (外務省 ウェブページ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/ianfu.html
『慰安婦」問題とアジア女性基金』 財団法人女性のためのアジア平和国民基金 2007年3月
『世界に影響を及ぼす韓国人売春婦の実態』
http://matome.naver.jp/odai/2134046056003214901
参考動画
英語を使って韓国の“従軍慰安婦”のインチキを訴えているジャーナリスト谷川雄二朗氏の "Guantanamo & Comfort Women" (23 min) (日本語字幕あり)
http://www.youtube.com/watch?v=ijYLNvUPU_A …
谷山雄二朗氏の "GEISHA, TONY BLAIR & COMFORT WOMEN "(52分)(日本語字幕あり)
http://www.youtube.com/watch?v=9bOw0uhgfrY&feature=share&list=UL9bOw0uhgfrY
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/ianfu.html
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《カンピリ敵性国婦女子収容所 Kamp pengasingan wanita di Kampili》
2006.02.20 スラウェシ島-インドネシア-情報マガジン
Kamp pengasingan wanita ada di Kampili selama August 1942 sampai August 1945 ( 3 tahun). Sekitar 2600 wanita dan anak asal Beranda, Amerika Serikat, Armenia dll. pernah tinggal disini.
この風光明媚なマリノにも暗い影がある。昭和17年2月に日本軍がマカッサルを占領した後、停戦協定により敵国の婦女子をマリノに集結させたが、その後、昭和17年8月から昭和20年8月の終戦までの3年間、スングミナサに近いカンピリに敵性国婦女子収容所という施設を作りオランダ人を筆頭にイギリス人、アメリカ人、アルメニア人など11カ国におよび、最大時には2,600人の婦女子を収容していた。収容所長の山地二等兵曹の奮闘とマカッサル専門学校の先生だったオランダ人のヨーストラ夫人を中心とする抑留者側の協力により自治体制が確立され自活運営が行われた。この間の事情については菊池政男著「白い肌と黄色い隊長」(昭和35年 文芸春秋新社 発行)に詳しく書かれ、後日同じ題名で映画化された。
「セレベスでは特警がうるさく、からかう以上のことをするとぶん殴られた。女性たちを野放しにすると、食べるために必ずパンパンに崩れるので、セレベスでは最終的には、敵性国人収容所をもうけ、オランダ国籍の者を全部収容し、街娼を防いだ。このために山地兵曹は、戦後オランダから感謝状をもらっている。セレベスの民政は安定していたようである。一方、南方全占領地の軍需物資供給地で、南方占領地で最も物資が豊富だったジャワでは、街娼がゴロゴロし、贅沢な暮らしをしていた者が急には生活を落とせず、下男下女を使いながら街娼になっている女性もいた。白人は希少価値があるので日本人より花代が高かった。戦後オランダ軍事法廷で問題になった「スマラン将校慰安所事件」では敵性国人収容所からオランダ女性を連れ出し慰安婦にしたという責任で、何人もが死刑や重刑に処されている。・・・・」(シュミーズ一枚の戦争 P124-125 原著不明 戦友会配布資料 粟竹章二氏所蔵) マカッサルでも同じような要請が軍の上層部から出たが、山地兵曹の必死の抵抗で食い止められたことが「白い肌と黄色い隊長」に描かれている。
注:収容所の地図と写真は菊池政男著「白い肌と黄色い隊長」(昭和35年 文芸春秋新社 発行)より転載させて頂きました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/makassar/up/malino.html#yamaji