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01/05/2016 12:04:22 AM
独の大都市ケルン中央駅前で、受け入れた難民や移民約千人が集団で通行人女性に性犯罪・強盗相次ぐ。「恩を仇で返す」とは正にこの事。難民・移民による犯罪、「日本でだけは起こらない」と言う人を信じない方が良い。 — 《独ケルン、大みそかに集団性犯罪 中東や北アフリカ出身者か》 2016.01.05 共同通信 【ベルリン共同】ドイツ西部ケルンの中央駅前で12月31日、中東や北アフリカの出身とみられる男らが、通行人の女性を大勢で取り囲んで性犯罪に及んだり、財布やハンドバッグを強奪したりする事件が相次ぎ、地元警察が捜査に乗り出した。ドイツのメディアが4日伝えた。 警察によると、酒に酔った男ら約千人が集まり、花火を人混みに打ち込むなどして大暴れ。複数のグループに分かれ、女性を取り囲んで犯行に及んだ。女性の被害届は約60件に上り、警察は件数がさらに増えるとの見通しを示した。 ドイツには中東などから難民や移民が大量流入している。 http://this.kiji.is/56907536272457734 https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/533000666867474
01/04/2016 07:17:53 PM
今回の慰安婦日韓合意が米国の意向を踏まえ「不可逆的に解決」し、米国も歓迎しているのならば、米国加州公立高校で2017年度から導入される虚偽の慰安婦「性奴隷教育カリキュラム」は変わるのか。変えるよう政府は米国に要請しているのでしょうか。 — 《【歴史戦】カリフォルニア州公立高で「慰安婦」授業検討 韓国系の要請受け2017年度改正案》 2015.12.21 産経新聞 【ロサンゼルス=中村将】米カリフォルニア州の公立高校で2017年度から導入される歴史・社会科学の教育カリキュラム改正案が作成され、日本軍の慰安婦問題が新たに盛り込まれたことが分かった。慰安婦は「性奴隷」と説明されている。韓国側の要請を受けた内容とみられる。州教育局は同案に対する意見を一般から聞いた上で完成版を策定するとしており、日本側の対応が注目される。 米公立高校のカリキュラムに慰安婦問題を盛り込む動きは同州が初めてとみられる。10年生(日本の高1~高2に相当)の教育内容に含まれ、州教育局が18日に公表した改正案には「いわゆる性奴隷の慰安婦たちは戦前や戦時中に領土を支配した日本軍に連れていかれた」「慰安婦は制度化された性奴隷、あるいは20世紀最大の人身売買の例として教えることができる」などと記述されている。 在米韓国住民向けの複数のメディアによると、韓国系の教育関係者らは11月中旬、州教育局が開催した歴史・社会科学カリキュラム改定の公聴会に参加。慰安婦問題を含め、先の大戦中、韓国人女性が旧日本軍から受けた非人道的な行為に関して、適切な教育がなされるべきだと主張した。 改正案の慰安婦に関する記述は全体のごく一部だが、昨年7月の国連欧州本部(ジュネーブ)で開かれた自由権規約委員会で、日本政府の担当者は慰安婦について「性奴隷との表現は不適切」と指摘した経緯がある。 州教育局は来年1~2月に電子メールなどで一般から意見を聴取し、5月ごろに再度公聴会を開催。その後、完成版の作成に着手するという。慰安婦問題をめぐる日韓協議は越年が濃厚な情勢で、年明け以降の協議の推移が注目される中、改正案の検討も行われることになる。 一方、改正案はこれまで通り、南京事件を「ザ・レイプ・オブ・南京」と表現。中国系米国人ジャーナリスト、アイリス・チャン氏(故人)の著作の題名と同じ表記は15年以上続いているが、日本側が州当局に見解を説明した形跡はない。 http://www.sankei.com/premium/news/151221/prm1512210006-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/photos/a.188901204610757/532945520206322/?type=3
01/04/2016 03:41:51 AM
済州島における吉田清治の「朝鮮人従軍慰安婦強制連行」は全くの捏造で、朝日新聞も謝罪しました。 しかし、韓国政府が1947年~57年に起こした一連の「済州島民虐殺事件」は、島民28万人のうち8万人を虐殺、村々の70%が焼き尽くされた実際の事件でした。韓国軍は島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われています。この時に多くの島民が日本に逃れて在日韓国・朝鮮人となりました。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされます。 韓国人が自国の歴史の汚点を隠蔽し日本に罪をなすりつけようとするのは、許せないが動機は推測できる。しかし、日本人にこの行為を行う者がいるのは、頭がおかしいとしか言いようがない。 — 《韓国・済州島に「慰安婦像」 日本史捏造でも、消し去れぬ島の数万人虐殺史》 2015.10.19 SANKEI EXPRESS 野口裕之 「島民や国内外の観光客にとって、平和と歴史教育の象徴の場になる」 韓国・済州(チェジュ)島の大学生組織《平和碑建立推進委員会》の決意を知り、韓国の「民主国家入り」が近いと感じた。闇に埋もれる「血塗られた島」の歴史を調べ、内外に真実を訴える覚悟だと。でも、やっぱり過剰な期待だった。島内の日本総領事館前の広場に“慰安婦問題”を象徴する少女像を設置する計画宣言に過ぎなかったのだ。観光地として名高い済州島だが、武力闘争と鎮圧でおびただしい数の人々が虐殺された。2003年の政府報告書は2万5000~3万人と記すが、4万~6万~8万人の研究結果も存在する。虐殺前の島民は28万人だから人間の所業とは思えない。 朝鮮戦争(1950~53年休戦)前の1948年4月3日、現・朝鮮労働党の前身の一つ北朝鮮労働党の南部組織=南朝鮮労働党が起こした武装蜂起が発端で《済州島四・三事件》と呼ばれる。といっても、韓国歴代保守系政府はじめ恐怖を引きずる被害者や過去の暴露を恐れる加害者…、それぞれの姿勢が複雑に絡み合い、大半の真相は死者とともに葬られている。そこで提案が有る。不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば、大日本帝國陸軍による「朝鮮人従軍慰安婦の強制連行」などと日本史偽造に耽るヒマはなくなる。何より、事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう。 ■ 120万人?耳を疑う数 朝鮮戦争をはさみ、済州島を皮切りに本土でも虐殺事件が頻発した。とりわけ、開戦2日後以降続く《保導連盟事件》は10万~120万人とばらつきはあるものの惨殺数には耳を疑う。南朝鮮労働党(南労党)といった親北朝鮮共産主義者が勃興→武装闘争やストライキが広まり→反共の韓国・李承晩(イ・スンマン)政権(48~60年)が無辜の民もろとも弾圧…と、対立の構図は済州島事件に似る。日本人の理解をはるかに超える残虐な諸事件の背景には一義的に▽共産主義者の凶暴性▽共産主義に対する強い警戒▽人権無視▽防共も目的とした戦争…などが横たわる。ただ、それだけでは説明できぬ。 朝鮮民族特有の精神構造《火病(ファッピョン)=憤怒症候群》とは、どう関係するのだろう。一部の人は「朝鮮民族特有の有り得ない激高」と“異訳”をするが、正確には「怒りの抑制に因る各種障害」だという。原因には諸説在り、総合すると《度重なる戦争・政変・略奪・復讐…など、過去の体験で生まれた『恨(ハン)』に根ざす永続的悲哀》との定義も可能だ。複数の論文には、幾つかの症状が紹介されていた。症状を《切迫した死への恐怖》→《パニック》→《生存本能が込み上げる》と並べると、虐殺に至る心理状態の推移が、おぼろげながら“理解”できる。 ■ 朝鮮民族特有の「火病」 済州島事件も、火病の側面ナシとは言い切れない。48年に入り、米陸軍司令部軍政庁が軍政を敷く南朝鮮は単独政権樹立に向け、共産主義の北朝鮮抜きで代議員選挙を決める。だが選挙の前後、済州島でも、北朝鮮の細胞や細胞に扇動された共産主義派島民が武装蜂起したため、警察や南朝鮮派民間人、《警備隊=後の韓国陸軍》が鎮圧する。ところが、共産主義派は山岳部に潜伏してゲリラ戦で対抗し、韓国独立=李承晩政権になっても山狩りが続く。朝鮮戦争開戦後も惨劇は治まらず、共産主義に同調する?島民の処刑・粛清も続発。結局、勃発~完全掃討まで6年半近く要した。 いずれの大量殺戮事件でも、理由も分からず人を殺した者が少なくない。特に済州島事件のエスカレートぶりは筆頭格で、火病を想起させる。赤色テロを敢行する共産主義派におびえる南朝鮮派VS報復や反共を理由とする白色テロにおびえる共産主義派の、双方の《切迫した死への恐怖》は《パニック》→《生存本能が込み上げる》と、火病の症状をたどったかもしれない。 済州島事件に関しては2000年に特別法が整備され、被害認定/名誉回復/調査報告書発行などが行われた。4.3平和公園に▽記念館▽慰霊館▽犠牲者発掘遺骨奉安館が建てられ、慰霊碑や犠牲者刻銘碑も悲しみを誘う。しかし、真相究明は2000年代半ば以降、保守派と非保守派の「政治的歴史観」の違いも在り、進展していない。実際、地元知事らの出席を請う陳情を受けた4月3日の67周年追悼式に、保守派の朴槿恵(パク・クネ)大統領(63)は昨年に続き欠席した。日韓関係史ばかりか、国史も正視ができぬらしい。 ■ 像設置の前に真実を学べ もっとも、朴大統領にはもう一つ「知られたくない歴史」がある。済州島事件制圧の出動命令が下った韓国軍部隊が部隊ぐるみで決起。他部隊と呼応し警察官や市民らを殺す《麗水(スヨ)・順天(スンチョン)事件》を起こす。彼我両側の将兵を含め8000人の軍民犠牲者を出して鎮圧されたが、軍内の南労党細胞が仕組んだ陰謀だった。徹底した粛軍が断行され、朴氏の父君・朴正煕(チョンヒ、1917~79年/後に大統領)も細胞として摘発。軍歴評価が高く死刑は免れ無期懲役となり、朝鮮戦争で軍に早々復帰している。 ところで、「慰安婦像」建立計画を進める済州島内の大学生に学んだか否かを問う。遺族証言が正しければ、一部島民が「裁判なしの即決」で、石に縛られ生きながら海に「廃棄」され→被害者の可能性が濃厚な朝鮮民族多数が長崎県・対馬に漂着→地元民が引き上げ→寺院に丁重に葬った…経緯を。膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま居座った非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である現実を。 済州島内の大学生がやるべき研究・運動は「慰安婦像」設置ではない。島内のいたる所にいまだ埋まる遺体だけでなく、事件も発掘し、真実を闇から引きずり出すことだ。 やるべきことを怠る一方で「慰安婦」の「虚像」を建てる意図は奈辺に在るのか。済州島をウソと闇で塗り固めた不気味な観光地にしたいのか。あるいは「慰安婦」も済州島事件も、一緒くたに日本の仕業にでっち上げるつもりなのか。でなければ、なぜ「慰安婦像の台座に済州島事件を象徴するツバキの花を彫り込む」のか。 火病は「恨」に根ざすという研究も目にしたが、「逆恨み」は哀れだ。 (政治部専門委員 野口裕之/>SANKEI EXPRESS) http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/151019/wor15101909140011-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/532733013560906
01/03/2016 10:28:18 PM
無罪判決を勝ち取った加藤達也 産経新聞前ソウル支局長。韓国の出鱈目な起訴のみならず、我が国国内の「謝罪」「遺憾」の表明を「提言」「助言」する愚物や売国組織・人士の圧力に屈さず、不正に屈さない日本人の尊厳を守り世界に示してくれました。感謝します。 — 《【朴槿恵政権との500日】加藤達也・前ソウル支局長の手記~ソウル地裁法廷に充満した異様な空気…検事の手は震えていた》 2016.01.01 産経新聞 ソウル支局長として滞在していた韓国で、インターネット上に掲載したコラムが朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損したとして私は、起訴された。「容疑者」「被告人」から無罪に至る500日間、特派員として朴政権と韓国検察を見続けた。そこには自ら泥沼の中にはまり込み、もがいている韓国の姿があった。 22日夕、東京・大手町の産経新聞編集局で、韓国の検察当局がソウル中央地裁の無罪判決を受け入れて控訴を断念したという一報を聞いたとき、まず浮かんだのは喜びの感情ではなかった。その5日前の17日、判決を受けてほっとしたのとは対照的な思いだった。無罪確定を受けて思い浮かんだのは、1年以上前の2014年11月27日、ソウル中央地裁の初公判の法廷での光景だった。 その日午前10時前、私は裁判官のひな壇と向かい合うように配置された長い腰掛けに弁護士と並んで座り、判事団の入廷を緊張しながら待っていた。 やがて書類の束を1メートルほど積み上げたショッピングカートを重そうに引きながら男性が廷内に現れ、検事の机の上に束を次々にドン、ドンと音を立てておいていった。男性は検察関係者と何事かやり取りすると、机上の書束をまたカートに載せ、机には厚さ20センチほどの書類を1部だけ残して出ていった。 隣の弁護士が私の耳元にささやいた。「あれは虚勢、はったりですよ。検察はこれだけ調べた。被告を有罪にするから覚悟しろというパフォーマンスです」 相手を内面から揺さぶる心理戦が既に始まっているのかと感心したが、開廷後、検察による起訴事実の読み上げが始まると、今度は検察の虚勢が崩れていくのを目撃した。 検察側の筆頭を務めたのは高泌亨(コ・ピルヒョン)検事だった。高検事はソウル中央地検刑事第1部に所属し、私に対する告発を受理して捜査を担当してきた。 韓国検察にも法廷での立証を担当する公判部があるが、重要事件の場合は取り調べ検事が身分をそのままに、法廷に出てくることがあるという。 私は取調室で、朴大統領への「誹謗の目的」を認めさせようとする検事との応酬の間、高検事の指先の動きがピアノを弾くように滑らかなことに気づいた。小指は反り返らせたまま使わず左右計8本の指で、カタカタとリズミカルに調書を作成する姿はプライドの高い、神経質そうな性格を感じさせた。 だが、初公判で見たのは全く別の姿だった。起訴事実が記載された文書を持った高検事の手が大きく震えているのだ。私は高検事の震える手を見ながらいろいろなことを思った。 検事もやはり緊張しているのか。告発した右翼の男らがわめき散らし、40人の立ち見傍聴人まで出た異様な法廷の空気にのまれているのか。それとも、大統領の顔色を見た法務・検察幹部から筋の悪い事件を公判まで背負わされた重圧か-。 恐らくはその全部だったのだと思う。高検事の“震える手”は、その後の審理での検察の窮状を象徴する出来事として記憶の底に定着することになった。 検察は実際に苦しんでいた。有罪の立証趣旨に合った言論の専門研究者を証人として連れてくることもできず、裁判長から証人の準備状況を問われて「現在調整中です」と応じる姿も苦しい。弁護側証人への尋問では、被告の悪意立証の証拠として日本のネット掲示板「2ちゃんねる」の書き込みを提出。弁護側から「その勇気がうらやましい」と皮肉られる始末だった。 ◇ 検察はどんな気持ちでこの公判に臨んでいたのだろうか。私は、担当の高泌亨(コ・ピルヒョン)検事の気持ちが知りたかった。10月19日、「懲役1年6月」という求刑がなされた公判の閉廷直後、まだ廷内に残っていた高検事に「ご苦労さまでした」と声をかけた。 私の呼びかけを意外に感じたのか、求刑を終えたことで肩の荷が下りたのか、高検事は戸惑ったような笑顔で「支局長こそ、長い間、大変にご苦労をなさいましたね」と、最も丁寧な言葉でねぎらってくれた。顔には、安堵が浮かび、検察官の威厳はなかった。 私が朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を傷つけたとして告発されてから無罪判決まで1年4カ月。朴政権をめぐる国際世論や日本の対韓認識の悪化が進行する一方で、朴政権の目的だった「産経新聞懲罰」は何の成果もなかった。朴大統領の側近たちも韓国の法務・検察当局も、「こんなはずでは…」という思いだったろう。 「産経新聞の支局長を一気呵成の波状攻撃で揺さぶり、精神的に追い込んで謝罪を引き出し、記事を取り消させて産経の信用を内外で失墜させることでしょう」。弁護方針の検討会で、朴栄●(パク・ヨングァン)弁護士は韓国政府と検察側のシナリオをこんなふうに読み解いてくれたことがあった。 朴弁護士は高検検事長を2カ所経験している元検察高官だ。韓国の法務・検察の手の内を見通している。 検察は韓国の右翼団体の告発を受けた翌日の2014年8月7日に私を出国禁止としたが、私には直接伝えられなかった。同年10月8日に起訴した際も抜き打ちで、メディア報道で知った。 こうした揺さぶりは、先の見えないはじめのころこそ「今後、どうなってしまうのだろうか?」という不安を駆り立てる効果があったが、慣れてくると「あ、またか」となって効果はなくなる。 私の取材では、韓国側は産経側から早期に謝罪と記事の取り消しを引き出せると踏んでいた。韓国側はまず青瓦台高官による「民事・刑事で法的責任を徹底追及する」という発言で萎縮させ、検察に呼び出して取り調べて恫喝。謝罪の意思を確認したが、思うような成果は出せなかった。 早期の謝罪引き出しは難しいとみた韓国側は9月下旬、「遺憾」の言葉を引き出す戦術に転じた。 国際社会では、事態が「政権批判をした外国特派員への弾圧」として定着し始めていた。韓国側は一刻も早く状況を転換しなければならなかったのだろう。 私自身と産経の経営陣に「さっさと謝ってしまってはどうか」「遺憾という言葉だけでも表明できないか」などという“提言”や“助言”が多数、届いた。 例えば、青瓦台に出入りして意見を求められることもある日韓関係専門の学者は休日の早朝に電話をしてきて「日韓関係の悪化を心配している。遺憾ぐらい表明できないか。青瓦台も振り上げた拳を降ろすタイミングを探っている」と。 しかしそもそも、日韓関係の悪化の事態を招いたのは誰なのか? 私はこうした発言の一つ一つに慎重に耳を傾けたが朴大統領自身が事態を心配して周辺と話し合っているという実感はついに持てなかった。 一方、公判も論告求刑まで進んだ2015年の秋、もはや「謝罪」を得ることは不可能とみたのか、韓国側は「遺憾の意」を引きだそうと必死になっていた。 特に柳興洙(ユ・フンス)駐日韓国大使の働きかけは熱心だった。11月26日から12月17日に延期された判決公判の期日が迫る中、知韓派の国会議員や安倍晋三政権の中枢にも働きかけ、「産経の社長と面会だけでも…」と要請してきた。社はこうした申し出を丁重に断ったという。 私の元には、ある新聞社の旧知のOBが20年ぶりに連絡をしてきた。面会すると、私に「会社を辞めて、遺憾の意を表すべきだ」と切り出してきた。これにはさすがに絶句してしまった。 昨年夏の問題発生当初には、あまりの圧迫感から吐き気を催したこともあった。しかし、そもそも、私のコラムは刑事訴追されるようなものだっただろうか? 何度も自問してきた。結局は安易な謝罪、遺憾表明をしなくてよかったと思っている。水面下で話し合いを持って、遺憾の意など示して折れてしまえば、将来も問題を蒸し返されて延々と弱みとなりかねないことは、日韓の歴史が証明している。中途半端な妥協をしなかったから、無罪となったと確信してもいる。 ◇ 「無罪」判決確定まで500日余り。これまでご心配、ご支援をしていただいた方々にこの場を借りて改めて感謝の気持ちをお伝えします。ありがとうございました。(社会部編集委員 加藤達也) 写真:韓国のソウル中央地裁に入る加藤達也前ソウル支局長=12月17日(撮影・納冨康) http://www.sankei.com/world/news/151231/wor1512310016-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/532671546900386
01/03/2016 11:29:25 AM
原子番号113番元素(仮名 ウンウントリウム Uut )、日本が発見した初の新元素と国際認定へ。素晴らしい業績、おめでとうございます。 — 《日本初の新元素、国際認定へ 理研に113番の命名権、「ジャポニウム」有力》 2015.12.26 産経新聞 理化学研究所が合成した原子番号113番の元素が新元素と国際的に認定される見通しになったことが25日、関係者への取材で分かった。国際学術機関が来年1月にも決定し、日本が発見した初の新元素として理研に命名権を与える方向で最終調整している。発見を争ったロシアと米国の共同研究チームを退けて認定される見込みで、科学史に残る大きな成果となる。 元素は物質を構成する基本的な粒子である原子の種類のこと。未確定を含め118番まで見つかっており、米露などが国の威信をかけて発見を競ってきた。アジアによる新元素の発見は初めてになる。 新元素の名称と元素記号を提案する権利は発見チームに与えられる。113番の名称は日本にちなんだ「ジャポニウム」が有力とみられ、関係機関の承認を得て決定する。 92番のウランより重い元素は自然界に存在せず、人工的に合成して発見される。113番は理研と露米チームがともに発見を主張し、約10年前から専門家による審査が続いていた。 審査は新元素を認定する国際純正・応用化学連合(IUPAC)と、国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)の合同作業部会が実施。関係者によると、作業部会は理研を113番元素の発見者として承認する報告書を化学連合側に提出した。物理学連合側の同意を踏まえて正式決定する。 理研は平成16年9月、森田浩介研究員(現九州大教授)らが加速器を使って30番の亜鉛を83番のビスマスに高速で衝突させ、核融合反応により113番の元素合成に成功したと発表。24年までに計3個の合成を高い信頼性で確認した。 一方、露米チームは2004(平成16)年2月以降、露ドブナ合同原子核研究所で別の手法により合成したと発表。理研と比べ時期はやや早く、作った個数は圧倒的に多かったが、113番元素であることの裏付けが不十分と判断されたとみられる。 露米は115番、117番、118番も発見したと主張し、審査されている。 【用語解説】113番元素 原子番号(陽子の数)が113の元素。周期表ではアルミニウムなどと同じ13族に位置付けられる。理化学研究所は線形加速器を使って亜鉛の原子核を光速の10%まで加速し、ビスマスの原子核に衝突させて合成した。陽子と中性子の数を合わせた質量数は278で鉄の約5倍重い。不安定で寿命は千分の1秒以下と短く、化学的な性質は分かっていない。 写真:113番元素の合成に使われた理化学研究所の装置=埼玉県和光市(理研提供) http://www.sankei.com/life/news/151226/lif1512260005-n1.html — 《日本発見の新元素ようやく誕生 百年越しの悲願 米露独の牙城崩す》 2015.12.26 産経新聞 すべての物質を構成する基本要素の元素は、どのような顔ぶれなのか。世界中の科学者たちが古来、追究してきた根源的な問いだ。見つかった元素を規則的に並べ、性質が分かるようにした周期表は自然科学における知の集大成ともいえる。その一角を日本が初めて占めることになった。 ウランより重い新元素は米国、旧ソ連、ドイツが発見を激しく競ってきた。米国は1940年に原子番号93のネプツニウムを見つけてから103番まで連続で発見し、その後はソ連と熾烈な争いを展開。80~90年代はドイツが107番以降を6連続で発見して一時代を築いた。 米ソは冷戦終結後、共同研究に移行。今回の113番ではドイツも再現実験に協力しており、日本は孤軍奮闘の様相だった。米露独による独占の構図に風穴を開け、アジア初の栄誉を勝ち取る意義は大きい。 新元素は原子核研究の一環として作られる。米国は原爆開発の技術が基礎になったのに対し、理研は平和目的で研究を進めてきた。新元素の発見は一般社会にすぐに役立つわけではないが、万物の成り立ちをひもとく普遍的な価値がある。その国が科学の高度な技術と知見を持つことの証しでもあり、誇るべき成果だ。 日本はかつて二度、新元素の発見を逃した苦い経験がある。元東北大総長の小川正孝博士は明治41年、鉱石から43番を発見したとして「ニッポニウム」と命名したが、後に別の元素と判明し、幻に終わった。 理研の仁科芳雄博士は昭和15年、93番が存在する可能性を加速器実験で示したが検出できず、直後に米国が発見。その加速器は戦後、原爆製造用と誤認した連合国軍総司令部(GHQ)によって破壊されてしまった。113番は仁科博士の研究を受け継ぐチームが発見したもので、雪辱を果たした形だ。 ようやく誕生する新元素は、日本の科学界にとって百年越しの悲願達成となる。(科学部長 長内洋介) http://www.sankei.com/life/news/151226/lif1512260006-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/532540513580156