カテゴリ:facebooklog

2014/08/18 2:49

2014/08/18

11日、インドの最大手英字日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』が「大戦中、日本兵がインド兵捕虜を食べた」と題する記事を掲載。TOIは英字紙では世界最多発行数、朝日新聞と提携。冤罪・誤判の疑いがあるBC級戦犯裁判等を根拠にしている様であり、検証が必要です。 — 《「人肉食」も…旧日本軍のインド人捕虜への残虐行為、印紙報道 その背景とは》 2014.08.15 ニュースフィア  日本とインドは、長らく友好関係を築いている。しかし、第2次世界大戦当時、インドはイギリスの植民地であり、連合国側に属していた。このインドの軍隊と、枢軸国であった日本とが、戦火を交えたこともあった。このとき、日本軍が捕虜として捉えた、インド軍将兵に対して行った残虐行為を、インドの英字日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』が詳しく伝えている。 【日本軍が捕虜としたインド軍将兵に対する非人道的行為】  1942年2月15日、日本は、当時イギリス領だったシンガポールを陥落させた。このとき、英領インド軍(英印軍)の将兵4万人が日本軍の捕虜となった。そのうち約3万人は、イギリス支配に抗しインドの独立を目指すインド国民軍に入隊した。この軍の設立にあたっては、日本軍が中心となって動いた。  しかし、入隊を拒んだ1万人は、日本軍の強制収容所での拷問を運命づけられた、と『タイムズ・オブ・インディア』は語る。収容所でのインド人捕虜の扱いは、非人道的なものだった。過重な労働、乏しい食料、絶え間ない暴行。そして捕虜が、生きたまま射撃訓練の標的とされることが、何度もあった、と記事は語る。  船で移送される際にも、寝る場所もないほど船室にすし詰めにされ、水や食料を満足に与えられず、目的地にたどり着く前に多くの者が死んだ、と記事は語っている。 【英印軍の将校らによる、日本軍の人肉食の証言】 「しかし、日本軍が行ったあらゆる残虐行為の中で、最も戦慄を覚えさせるものは、彼らが人肉食を行ったことである」と記事は伝える。  英印軍のある将校はこのように告発にする。「Suaidという村で、日本軍の軍医が、周期的にインド人捕虜収容所を訪れて、毎回、最も健康な者たちを選び出した。その者たちは、表向きは任務を果たすためということで連れ去られたが、彼らは決して戻ることはなかった」。さらに日本軍は、インド人捕虜ばかりでなく、ニューギニアの現地人さえも殺害し、食していたと主張する。  他の将校はこのように告発している。「自分と一緒にウェワク(の収容所)に行った300人のうち、50人だけがそこから出ることができた。19人は食べられた。日本人の医師――ツミサ中尉は、3、4人の小部隊を作り、インド人1人を何かの用事で収容所の外に遣わすのだった。日本人たちはすぐさま彼を殺害し、彼の体の肉を食べるのだった。肝臓、臀部の筋肉、大腿部、下肢、腕が切り取られ、調理されるのだった」。 【その他にも証言、証拠があるという】  記事では、これらの告発内容についての裏付けは伝えられていないが、この他にもさまざまな証言があるという。しかもそれらは、連合国が設置した戦争犯罪調査委員会に対する、宣誓証言として行われたと伝えている。その証言に基づき、何人かの日本人将校とその部下が裁判にかけられた。人肉食によって有罪が宣告され、絞首刑に処された将校の名前を、記事は挙げている。訴えられた日本人は、これらの告発を常に否認したそうだ。  1992年、田中利幸氏という日本人歴史家が、インド人や他の連合国側捕虜に対する、人肉食を含む、日本軍の残虐行為の明白な証拠を発見した、と記事は伝える(氏は現在、広島市立大学広島平和研究所教授)。その証拠がどのようなものかについて、記事は触れていない。氏は、1997年に『隠された惨事――第2次世界大戦における日本人の戦争犯罪』という本を英語で発表した。その本では、日本軍は食料の貯えが次第になくなったときに人肉食という手段に訴えた、という連合国側の下した判決が反論されているという。人肉食は上級将校の監督下で行われ、権力を表象化する手段として認識されていた、との主張だそうだ。 【英印軍の再評価の試みとも】  このように、日本軍が英印軍の捕虜に対して行った残虐行為の数々が、記事では列挙されている。しかし、記事の狙いは、日本軍の非道ぶりを暴くことだけではないようだ。  インドでは、インド国民軍は、イギリスからの独立に寄与した存在として、特別視されている。戦後、イギリスがインド国民軍将兵を裁判で裁こうとしたため、イギリスへの反感が爆発し、独立への機運が一気に高まった。その後、1947年8月15日にインドは独立を果たした。  反面、英印軍に対する評価は芳しくないようだ。記事によると、インドのナショナリストが第2次世界大戦を語るときには、ずっと、インド国民軍と邪悪な大英帝国の衝突として描かれてきたという。その構図では、英印軍はイギリスの手先の悪役だ。しかし、英印軍将兵が、日本軍の捕虜となり拷問を受けた際にも、忠誠を守り続けたことは、注目に値する勇敢さだと、記事は語る。  記事は、この勇敢さ、不屈の精神を、英印軍だけのものでなく、インド人一般のものとして捉えようとしている。英印軍将兵の示した忠誠心も、実はイギリスに対する忠誠心ではなく、同胞や上官、自分の所属する部隊に対してのものだった。そして、この忠誠心と、インド国民としての強いアイデンティティーとが結び付いて、彼らをあらゆる種類の困難に耐え抜かせていたのかもしれない、と語る。そしてこのアイデンティティーこそが、英国による支配を揺り動かしたのだろうと、英印軍の中にも、独立に寄与するところがあったとほのめかしている。  この記事を引用するかたちで、国際ビジネスニュースサイト『インターナショナル・ビジネス・タイムズ』(英国版)と、バングラデシュの『デイリー・スター』が取り上げている。前者は、人肉食を中心に、日本軍が行った戦争犯罪の非人道性に着目して、抜粋して伝えている。後者は、ほぼ人肉食のことだけを伝えている。 http://newsphere.jp/world-report/20140815-2/ (元記事) 《Japanese ate Indian PoWs, used them as live targets in WWII》 Aug 11, 2014, 06.00AM IST TNN[ Manimugdha S Sharma ]THE TIMES OF INDIA 写真 Japanese soldiers take aim at […]

2014/08/17 0:48

2014/08/17

15日(北朝鮮では祖国解放記念日)、北朝鮮の金正恩第一書記がプーチン露大統領に祝電、習近平中国主席には送らず、と。真偽は。 — 《金正恩第一書記が終戦記念日に中国を挑発、習近平主席を無視=祝電はプーチンだけ、中国激怒―中国メディア》 2014年8月15日、米尓社区は記事「日本終戦記念日に金正恩が中国を公開挑発、中国政府は激怒」を掲載した。 8月15日は日本では終戦記念日だが、北朝鮮では祖国解放記念日として祝われている。金正恩(キム・ジョンウン)第一書記はこの日、ロシアのプーチン大統領に祝電を送り、両国がともに抗日戦争を戦った友好について述べた。金書記は就任以来たびたびロシアに祝電を送り、両国の絆をアピールしている。 その一方で亀裂が鮮明となったのが中国との関係だ。今回も中国に祝電は送られなかった。2013年3月の習近平(シー・ジンピン)氏の国家主席就任には真っ先に祝賀の電報を送った北朝鮮だが、それから1年あまりで中国の友情を忘れてしまったかのようだ。(翻訳・編集/KT) http://www.recordchina.co.jp/a92716.html

2014/08/16 17:22

2014/08/16

結党以来、自民・民社党系の改憲派と社会党系の護憲派が路線闘争を続け、綱領無き「決められない政党」であった民主党。かつて私もこの党に所属し、都議としてこの党がまともな政策を打ち出すよう全力で戦いましたが、駄目でした。今や、ここまで左傾化しましたか。 — 《民主代表「集団的自衛権行使必要ない」》 2014.08.16 産経新聞  民主党の海江田万里代表は15日、米艦防護など政府が集団的自衛権の行使が必要だとする8事例に関し「(行使は)必要ない。これが党の全体的な考え方だ」と明言した。5日の党常任幹事会で「現時点では必要ない」との新たな見解を示したが、党内でなおあいまいと指摘され、反対姿勢をより鮮明にした。都内で記者団の質問に答えた。 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140816/stt14081613340001-n1.htm

2014/08/16 16:51

2014/08/16

人類史上初、人類の手による太陽系外の物質採取。どの様な新発見がもたらされるでしょうか。 — 《史上初、太陽系外物質の可能性 NASAの探査機が採取した星間物質》 2014.08.15 産経新聞  無人探査機「スターダスト」が採取して2006年に地球に送り届けた星間物質のサンプルを分析した結果、太陽系外から来た微粒子が含まれている可能性があることが分かったと、米航空宇宙局(NASA)の研究チームが発表した。現時点で候補となる微粒子は7個で、大きさや化学組成もさまざま。断定するにはさらに分析が必要だが、確認されれば太陽系外の物質採取は初めてとなる。  想像するしかなかった星間物質の起源を探る貴重な手掛かりになりそうだ。数百万年前の超新星爆発で生み出された可能性があると研究チームはみている。  1999年に打ち上げられたスターダストは今回のサンプルとは別に彗星から噴出した微粒子を04年に採取し、カプセルに収めて地球に届けた。彗星の微粒子の分析からは、太陽系の形成初期の状態を知るための手掛かりが得られている。  太陽系外から来た可能性がある微粒子は00~02年に宇宙空間を飛行している際に特殊な装置で採取した。大きさは幅があるが直径数千分の1ミリ程度。(共同) http://sankei.jp.msn.com/science/news/140815/scn14081514550004-n1.htm

2014/08/16 16:27

2014/08/16

拉致被害者全員の帰国を必ず実現させる。新たな拉致疑惑が生ずれば、必ず交渉の俎上に載せる。最後の一人が帰ってくるまで、問題の幕切れは無い、との強い姿勢で交渉に臨まなければなりません。期待しています。 — 《【ニッポンの分岐点】日朝関係(3)小泉訪朝 「単身で敵地」拉致動く》 2014.08.16 産経新聞  日朝関係は平成14年、歴史的な節目を迎える。首相の小泉純一郎の訪朝だ。北朝鮮は拉致を正式に認め、日本側に謝罪。10月15日には拉致被害者5人の帰国という成果を得る。一方で、「8人死亡」という衝撃的な報告がもたらされ、拉致事件の全容解明には至らなかった。 ■ 悲壮な覚悟  13年4月に発足した小泉政権は同年夏の参院選で大勝し、政権基盤を着々と固めていた。  その陰で、外務省アジア大洋州局長の田中均は同年晩秋から極秘裏に北朝鮮と交渉を始めていた。窓口役となったのは、日本側が「ミスターX」と呼んだ人物。田中は最高指導者である総書記、金正日(キムジョンイル)に通じる人物と判断し、中国などで接触を重ねながら、拉致問題の解決、国交正常化に向けた準備交渉を進めた。  小泉の訪朝は、官房長官の福田康夫が14年8月30日、電撃的に発表した。この日以降、首相官邸では訪朝の準備が本格化する。  首席首相秘書官だった飯島勲(68)=現内閣官房参与=は、約120人の報道陣の取材を北朝鮮に認めさせるなど持ち前の辣腕をふるっていた。対照的に、警護官(SP)や同行の職員数は最小限に抑えた。「単身で敵地に乗り込んで話をつける」。小泉の悲壮な覚悟の表れだったという。  同行する政治家は官房副長官の安倍晋三(現首相)だけ。通訳を除き、その他は首相秘書官の別所浩郎、外務審議官の高野紀元(としゆき)、田中らわずか7人だった。  「握手するときは頭を下げてはいけないんだ。それが(映像に)映るとわびることになる。堂々としておけ」。飯島は金ら北朝鮮の要人と日本側の一行が握手する場面を想定し、同行が決まった首相秘書官らに日本人の癖である「おじぎ」をしないように忠告した。 ■ 衝撃的な情報  9月17日、平壌国際空港に着いた小泉は、首脳会談が行われる百花園迎賓館へ向かった。同館では首相、安倍、秘書官らの控室は別々に用意されていたが、飯島の判断で全員が小泉と同じ部屋で待機した。一体感を保つためだったという。  部屋に入ってまもなく、一行に衝撃的な情報がもたらされる。北朝鮮側が拉致被害者について「5人生存、8人死亡」と非公式に日本側に伝えてきたのだ。小泉はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で「どういうことなんだ」「どのルートの情報なんだ」とつぶやいた。  小泉は午前の首脳会談の冒頭、無言を貫き、報道陣の退出後に「強く抗議する。家族の気持ちを思うといたたまれない」と金に迫った。  昼の休憩は、飯島が東京・銀座で調達したにぎり飯だったが、小泉はほとんど口にしなかった。随員の一人が控室のテレビの音を小さくしようとしたが、小泉が「そのままでいいんだ」と声を荒らげる場面もあった。テレビの音が大きければ盗聴されにくいことを小泉は知っていた。「終始冷静だった」(首相秘書官の一人)という小泉だが、神経は張り詰めていた。  この時点で、金は拉致自体を認めていない。「拉致したという白状、謝罪がない限り、日朝平壌宣言への調印は考え直すべきだ。認めなければ、席を立って帰国しましょう」。安倍が強い口調で小泉に迫る。小泉は最終的に安倍に同調し、日本政府の方針が定まった。  田中らは非公式の安否情報リストを入手し、分析を急いだ。リストには死亡日が記載されていたが、同じ日に亡くなるなど不自然な点が多かった。この重要情報は「未確認」を理由に日朝平壌宣言の署名直前まで小泉には伝えられず、後に外務省による「情報操作」と批判されることになる。  午後の首脳会談で、金は「妄動主義者と英雄主義者」がやったと拉致を認め、「おわびしたい。二度と許すことはない」と謝罪した。この言葉で小泉の強硬姿勢は薄れ、同宣言への署名を決断した。 ■ 思わずこぼれた涙  小泉訪朝から約1カ月後の10月15日。内閣官房参与だった中山恭子(74)=現参院議員=は午前7時過ぎ、拉致被害者5人の迎え役として全日空のチャーター機で平壌へ飛んだ。  中山の回想によると、外務省は当初5人については、北京経由の定期便で帰国させようとしていた。だが、中山が「政府が守れなかった人たちなんです。チャーター機でなければ迎えになど行けません」と強く反対。中山の意をくんだ安倍が外務省と交渉し、ようやくチャーター機の使用が決まったのだった。  中山は、空港の待合室で5人と面会する。5人は大きな声で「おはようございます」とあいさつした。中山は、はっきりとした発音の日本語を聞いて安心し、「日本の心を失っていないと直感した」と振り返る。  チャーター機に乗った5人は窓際に座った。日本海を渡り終えるとき、拉致被害者の一人、地村富貴恵が「あれ、若狭湾じゃない?」と声を上げた。5人は一斉に窓の外に視線を向け、食い入るように日本の陸地を見つめていた。  5人は北朝鮮で「日本に帰国したら国民から歓迎されない」とすり込まれていたという。だが、羽田空港に着くと、多くの人々が帰りを待っていた。戸惑う5人。地村はとっさに「みんな、がんばって降りましょう」と声をかけた。それが合図となり、5人はゆっくりとタラップを降りた。真下には肉親や友人が集まっていた。中山は、思わず涙がこぼれた地村を「大丈夫よ…」と励ました。  小泉は16年に再訪朝し、北朝鮮に残されたままだった拉致被害者の家族を帰国させることに成功した。しかし、拉致被害者全員の帰国を求める家族会の反発は強く、「日朝平壌宣言の履行を優先している」などと厳しい批判を浴びた。  この後、日本側は拉致被害者の再調査を強く求め続ける。これに対して北朝鮮は「拉致は解決済み」との立場を繰り返してきたが、今年5月に再調査を受け入れ、7月から再調査が始まった。  中山は「今度こそ、もっと大きなチャーター便で拉致被害者全員が乗って、何百人になるか分からないぐらいの大勢で日本の土を踏んでもらいたい」と訴える。再調査の結果は9月上旬にも示される。=敬称略、肩書は当時(山本雄史) ◇ 【用語解説】日朝平壌宣言 平成14年9月17日、小泉純一郎首相と金正日総書記が平壌で署名した。拉致問題を「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」と表現し、北朝鮮は再発防止へ「適切な措置を取る」と約束した。国交正常化交渉の再開、「不幸な過去の清算」が明記され、日本は国交正常化後の経済協力を表明した。 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140816/plc14081612150012-n1.htm