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2015/02/17 22:08

2015/02/17

《世界の技術を先導 シンガポール、水ビジネス大国に》 2015.0217 日経新聞 編集委員 宮内禎一  水資源の多くを隣国マレーシアに頼ってきたシンガポールが、水自給率の向上に本格的に取り組み始めて約15年が経過した。弱点の克服という当初の目標を超えて、水処理技術を自国産業の競争力強化につなげる戦略が軌道に乗っている。 ■ 2002年時点の淡水供給力は世界で170番目  「ここだけで国内の水需要の10%をまかなえます」。カジノを擁する統合型リゾート(IR)や高層オフィスが林立するシンガポール中心部のマリーナ湾。同国政府は2008年、湾の入り口に長さ約350メートルの堰を設けて海と仕切り、約240ヘクタールの淡水の貯水池「マリーナ・バラージ」を整備した。  貯水池、下水再生水、海水淡水化――。堰のたもとには、同国が力を入れてきた水政策の歴史と内容をわかりやすく説明する施設があり、小中学生や市民が学びに訪れる。  降水量は多いシンガポールだが、国土が狭くて保水力が乏しく、マレーシアから水を輸入してしのいできた。2002年の国連報告書ではシンガポールの淡水供給力は世界190カ国中、170番目。政府は水問題の解決を最重要課題とし、遮二無二に対策を推進してきた。  第1が貯水。「雨粒を一滴たりとも無駄にしない」方針から貯水池を17カ所に拡大し、国土の3分の2の地域に降る雨を確保できるようにした。  第2が下水再生水。通常の下水処理水をマイクロフィルターと逆浸透膜でろ過して紫外線で殺菌処理した高度処理水「ニューウオーター」の研究開発を1998年に開始し、03年に最初のプラントが稼働した。現在は16年稼働を目指し5番目のニューウオーター施設を中国企業と合弁で建設中だ。ニューウオーターは半導体工場など工業用のほか、一部は貯水池にも供給している。 ■ シンガポールの水需要に占める再生水などの割合               現 在  2030年  2060年 再生水「ニューウオーター」 30%   50%   55% 海水淡水化         10%   20%   25% 降水・輸入水など      60%   30%   20% (注)30年と60年は政府の目標  第3が海水淡水化。05年に初の施設が稼働し、13年に2番目の施設も完成した。現在はニューウオーターで需要の30%、海水淡水化で10%を占める。水需要がほぼ倍増するとみられる60年にはこの割合をそれぞれ55%、25%に高める目標を掲げている。  対策を担当する公益事業庁(PUB)は、研究開発への資金援助や海外企業の誘致によりシンガポールを水処理技術のハブ(拠点)にしようと戦略的に動いてきた。シンガポールの水処理会社「ハイフラックス」は01年に初のニューウオータープラント建設に参加して以来急成長し、海水淡水化事業にも進出。今や中国やインド、中東など世界中の事業に参加している。 ■ 世界の水処理関連150社と26研究所が関係  PUBは04年、下水処理場に隣接する水ビジネスの育成施設「ウオーターハブ」を整備した。最新鋭の機器を備え、隣の下水処理場では実証実験もできるため、世界から水処理関連企業が集まってきている。  シンガポールには現在、旭化成や東レなど水処理関係の企業150社と26の研究所が関係する世界でも最先端の技術ハブになっている。PUBのモー・ティンリャン上級副局長は「水の増産と質の向上、低コスト化が研究開発の3大テーマ。シンガポールに拠点を置き、東南アジア、中国、インド、中東などへの跳躍台にしてほしい」と語る。  海外から進出した企業の最新事例として、明電舎がシンガポール西部の工場地帯、ジュロン地区のPUB敷地内に昨春設けた施設をみてみよう。  どす黒い工場廃水をためたタンクからは卵が腐ったような臭いが漂う。ここには石油化学、薬品、食品など周辺の300以上の工場から廃水が集まってくる。4時間貯留して液を均質化。その後、嫌気処理、微生物処理、活性汚泥処理を経て、同社のセラミック平膜で最終処理し、工業用水に再生する。PUBとの2年間の実証プラントで、補助金も得ている。  処理能力は1日4500立方メートル。丈夫で長持ちなうえ、オイルでも目詰まりしないセラミック平膜は工場廃水の処理に効果を発揮する。シンガポールからオーストラリア、東南アジア、中東市場などを念頭に、同社は今夏にも平膜の組み立て工場をジュロン地区に建設する計画だ。  明電シンガポールの杉井守社長は「シンガポールのウオーターハブには世界の様々な最先端技術が集まるほか、定期的に開かれる国際見本市にも世界中から水処理関係者がやってくる」と語る。  世界的な人口増加や発展途上国の経済成長で、水不足に陥る地域が今後一層増えるのは確実。アジア開発銀行(ADB)の試算によると、2010~20年に水処理関係のインフラに投じられる金額はアジアだけで4000億ドル(約48兆円)に上る。  補助金や税制優遇、共同研究機会の提供、国際見本市の開催など、シンガポールは総合力で水処理技術の拠点化をさらに進め、成長分野の需要を取り込もうとしている。 http://www.nikkei.com/article/DGXMZO83219290W5A210C1000000/

2015/02/17 21:42

2015/02/17

《GDPの名実逆転、17年ぶり解消 14年、幅広いモノの価格上昇》 2015.02.17 日経新聞  内閣府が16日に発表した2014年の国内総生産(GDP)によると、物価の総合的な動きを示すGDPデフレーターは前年比1.6%上昇した。プラスになったのは1997年以来17年ぶりで、マイナス基調が続いていた国内物価に上昇の機運が出てきた。名目成長率が実質成長率を下回る「名実逆転」も解消した。政府が目指すデフレ脱却が一歩近づいた格好だ。  GDPデフレーターは個人消費や設備投資、輸出入など、経済活動全体の価格の動きを示す指標だ。金融機関の破綻が相次いだ1997年の翌年から一貫して前年割れが続いており、日本がデフレから抜け出していない象徴の一つだった。  甘利明経済財政・再生相はGDP発表を受けた同日の記者会見で「デフレ脱却に向けた好ましい状況にある」と語り、デフレーターが上昇している現状を好意的に受け止めた。  14年のGDPデフレーターの上昇率1.6%のうち、消費増税は1ポイント程度で、それ以外の「実力」による物価上昇は0.6ポイント程度と見込まれる。資材価格や人件費の上昇で住宅や設備投資関連の物価が上がったほか、身近なモノやサービスの値段も上がった。  ただ、日銀が物価上昇の目安としている消費者物価指数(CPI)の伸びは、原油安の影響で伸びの鈍化が見込まれる。エコノミストの中には、CPIは15年中に再び前年同月比マイナスに陥るとの見方もある。  政府はCPIやGDPデフレーターの前年比プラスが定着し「再び物価下落に戻らない」ことをデフレ脱却の条件としている。CPIの伸びが低迷するのは、エネルギー以外の物価の伸びが高くないことを示している。必ずしも今の段階で日本経済が完全にデフレから脱却できたとは言いにくい。 http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H8Q_W5A210C1PP8000/

2015/02/17 19:28

2015/02/17

《虐殺されたはずの南京市民》 2014.11.04 JAPAN+ 写真は真実を語っています。 もはや説明はいらないでしょう。 あなたの常識で判断できる「南京大虐殺」の虚構────。 http://japan-plus.net/238/

2015/02/17 9:53

2015/02/17

《今もインドで歌われる日本兵を讃える歌》 2008.03.24 戦後60年以上たっても、インドで歌われ続ける日本兵を讃える歌 http://youtu.be/__7fG0aqJDk

2015/02/17 9:03

2015/02/17

《【歴史戦第9部 南京攻略戦】 (3)「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていた」 憲兵配置…略奪・強姦ありえない》 2015.02.17 産経新聞  昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。  日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦事件を起こし、射殺しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。  これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は虐殺とはほど遠い平穏さがあった。加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。  「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」  元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。  昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。  橋本は名誉毀損で元上等兵らを訴え、「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、1審から最高裁までいずれも橋本勝訴の判決が下った。そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。  「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」  橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。  「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」 ■ ■ ■  橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。  判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」も数字の明確な根拠が示されなかった。  こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。軍は細心の注意を払っていたという証言がある。  「安全区の掃討には厳重な命令がありました」  南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。  安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。  掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。 ■ ■ ■  南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。  城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に駐留することもあった。日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。  「憲兵がおりますけん、違反はできんし、われわれも絶対にせんかった。軍紀はそれほど厳しかったとです」  東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと強調した。  ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。 (敬称略) 写真:「戦争中も軍規は守られていた」と話す橋本光治さん=東京都江戸川区(池田祥子撮影) http://www.sankei.com/life/news/150217/lif1502170003-n1.html