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02/10/2017 11:07:09 PM
韓国が新たな貶日歴史捏造工作「軍艦島は地獄島」宣伝を開始。 慰安婦問題について、「韓国の捏造でも、謝れば解決して仲良くなれる」と主張する人がいますが、それでは全く解決などしないのです。 — 《【歴史戦】「軍艦島は地獄島…」韓国映画・絵本が強制徴用の少年炭鉱員を捏造 憤る元島民たち「嘘を暴く」》 2017.02.08 産経新聞 少年たちが鉄格子の檻に収容されている様子も描かれている。 「少年たちはまさに死の恐怖の中で日々を耐えなければなりませんでした」 鉄格子の檻の外壁にはハングルで「お母さん、会いたいよー」「おなかがすいたよ ふるさとに帰りたいよー」と書かれている。 首都大学東京名誉教授、鄭大均はシンクタンク「日本戦略研究フォーラム」の時事論考で「戦時期の日本の炭鉱にあどけない『朝鮮人少年坑夫』など存在しなかったことは関係者なら誰でも知っている」と批判した。 鄭は絵本になぜ朝鮮人少年が登場するかを次のように分析する。 「絵本が出た2016年に関係している。朝鮮人慰安婦が『少女像』として脚光を浴びていた時代であり『朝鮮人少年坑夫』はその『少年版』なのだろう」 戦後、長らく忘れられた存在だった「軍艦島」として知られる端島(はしま)に世界の注目が集まったのは、端島炭坑(長崎市)など「明治日本の産業革命遺産」が15年7月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産として登録されることが決まったからだ。 韓国は官民を挙げて阻止に動いた。映画や絵本はその運動の一環だ。こうした「事実と違うことには反論しなければならない」と立ち上がったのが元島民たちだった。 ■ 「事実と違う」 1月7日朝。長崎港から約19キロの沖合にある端島に8人の元島民が上陸した。一時雨との予報も出ていたが、空は晴れ上がり、波もほとんどなく、“里帰り”を歓迎しているかのようだった。 「死ぬ気で来たよ」 宮崎県在住の元坑内員で朝鮮半島出身者や中国人とも働いた松本栄(88)は冗談を言いながら、娘たちに脇を抱えられながらゆっくり下船すると、眼前に広がる風景に目を細めた。 軍艦島は面積約6万3000平方メートル。南北に約480メートル、東西に約160メートル、周囲約1200メートルという東京ドームの約1.3個分ほどの大きさの島だ。最初の竪坑建設に着手した1869(明治2)年から、1974(昭和49)年に閉山するまで多くの人が生活した。 最盛期の人口は約5300人。小さい島の限られた空間を埋めるように日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設された。当時の東京の人口密度の9倍だったという。 ■ 有刺鉄線はなかった 閉山から43年。建物の多くは朽ち、崩壊していた。松本は「この辺には何があったかな」と、時折つぶやきながらゆっくりと島内を歩いた。 松本が他の元島民らとともに立ち止まった場所があった。かつて中国人労働者が生活していた建物があったという場所の前だ。今は空き地になっている。 「中国人は100人ぐらいしかいなかった」「ここに200人の中国人が入る家屋があったというが、そんなに多くの人は入らないよ」「1部屋に入るのはせいぜい10人ぐらいだった」 中国人労働者を閉じ込めるために有刺鉄線が敷かれていたという話もあるが、松本は「有刺鉄線はなかった」と話す。 朝鮮半島出身者の子供は日本人の子供と同じように学校に通い、机を並べて勉強した。アパート内には朝鮮半島から来た家族も多く入居していたという。 そのうち、元島民の一人が島の上にある真っ白な灯台を指さした。 「戦前、端島は不夜城のように明るかったから灯台なんて必要なかった」 だが、韓国で出版された児童用絵本『軍艦島-恥ずかしい世界文化遺産』には、灯台から3本の光を発している絵が描かれている。「絵本は明らかに事実と違う」と元島民たちは口々に反論した。 ■ 録画で記憶を残す 端島を訪問した元島民たちは長崎市内のホテルでほかの元島民らと合流し会合を開いた。出席者からは故郷である端島が国内外にゆがめて伝えられていることへの憤りの声が相次いだ。 「端島について書かれた本を読むと端島が(ナチス・ドイツによる)アウシュビッツ収容所と同一だと書いてあり、頭にきた。本に書いてある嘘を暴いて、これが真実であると国内外に言わなければいけない」 「朝鮮人労働者が虐待されたという話ばかり。欺瞞と虚偽と誇張に塗り込まれた記事が横行していることに憤りを感じる」 「日本は事実を明確にして反論しなければいけない。慰安婦問題もそうだが、日本は事なかれ主義できたが、もう少し毅然と事実を明らかにして言うべきことは言うという姿勢で臨んでいきたい」 「韓国では端島を『監獄島』『地獄島』と言っているそうだが、われわれはそんなところに住んだ覚えはない。日本で重い罪を犯して無期懲役を受けた者が軍艦島に来ていると書かれているが、私たちは違う」 真実を伝えるには、端島で生まれ育った自分たちが口を開くしかない。こうした思いに突き動かされた元島民たちは「真実の歴史を追求する端島島民の会」を1月23日に設立した。 当時のことを記憶する元島民たちの証言を動画で記録するなどして、後世に「正しい端島の歴史」を伝える考えだ。 炭鉱労働者たちの証言記録を集めている内閣官房参与の加藤康子は会合で「皆さんの一次証言や一次資料が何よりも一番重要な真実を語る。それをそのままの形で残していきたい」と述べ、元島民や家族に協力を求めた。 =敬称略 (有元隆志、田北真樹子) ◇ 【用語解説】朝鮮人徴用 端島など「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ世界文化遺産登録をめぐり、韓国側は「強制労働」という言葉を盛り込もうとした。だが、徴用は国民徴用令に基づいており、当時の国際法上違法ではなかった。そもそも請求権問題は、1965年の日韓請求権協定で最終的に完全に解決済みである。ただ、日本側は韓国に配慮し「朝鮮半島などから多くの人が意思に反して連れてこられ、厳しい環境で労働を強いられた」と表明した。 写真:元住民達が訪問した端島(軍艦島)=1月7日、長崎市(田北真樹子撮影) http://www.sankei.com/politics/news/170208/plt1702080004-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/725465870954285
02/09/2017 11:57:36 PM
日米首脳会談前に、何としてもトランプ米大統領に「一つの中国」を認めさせなければ、という中国の必死さを感じます。 しかし、このまま中国に都合良く事態が進むとは考えない方が良いでしょう。 台湾問題のみならず、日米首脳会談で中国に対してどの様な共通の認識と政策が合意されるのか、中国が大変に恐れていた事は明白です。 我が国においても左翼に偏向しているメディアが、今回の日米首脳会談を何とか貶めようと、様々な「懸念」を並べ立てていますが、安全保障を依存している超大国のトップと信頼関係を醸成する事は、我が国の外交上、何よりも重要である事は論を俟ちません。 — 《米中首脳、長時間協議 米公表は「一つの中国」のみ》 2017.02.10 日経新聞 【北京=山田周平】トランプ米大統領と中国の習近平国家主席は10日(中国時間)、電話協議した。米中双方が発表した。米ホワイトハウスによると、トランプ氏は習氏の求めに応じ、「我々の『一つの中国』政策を尊重していく」と表明した。トランプ氏の1月20日の大統領就任以降、米中首脳が電話協議するのは初めて。 ホワイトハウスによると、両首脳は電話で長い時間協議し、多くの議題を話し合った。ただ、具体的な議題として公表したのは、中国大陸と台湾が一つの国に属するとする「一つの中国」の原則を巡るやりとりだけだった。 中国では、国営中央テレビが昼のトップニュースで電話協議を伝えた。習氏が米中が幅広い分野で協力を進める必要性を指摘したなどと報じたが、具体的な議題ではトランプ氏が「米国政府が一つの中国の政策を堅持する」と述べたとする台湾問題だけを詳報した。 米国は1979年に中国共産党政権と国交を樹立する際、中国が主張する「一つの中国」の原則を尊重することを確認。その後は台湾当局とは外交関係を持たず、米台交流は非公式だとしてきた。中国はこれを「中米関係の政治的な基礎」と位置づけてきた。 しかし、トランプ氏は当選後の2016年12月、中国が自国の一部と見なしている台湾の蔡英文総統と異例の電話協議を行い、公表した。中国がこれに反発した後も、「一つの中国」の原則の見直しを辞さない考えを表明し、大統領就任後の出方が注目されていた。 トランプ氏は就任以降、安倍晋三首相やロシアのプーチン大統領、メルケル独首相ら主要国首脳と電話協議を重ねたが、米中協議だけ行われない異常な状態が続いていた。 http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM10H6J_Q7A210C1000000/ https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/724975874336618
02/09/2017 06:34:31 AM
「日本のこころ」が正式の党名となりました。 — 《党名変更について》 2017.02.07 日本のこころ 本日2月7日、「日本のこころを大切にする党」は議員総会にて「日本のこころ」へ党名変更することを決し、同日総務省へ名称の変更を届け出ましたことをご報告申し上げます。 より覚えやすく党名を短縮し、さらなる存在感を発揮して参ります。 今後ともご支援のほどお願い申し上げます。 https://nippon-kokoro.jp/news/party/post_290208.php https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/724652214368984
02/07/2017 10:40:43 AM
本2月7日は、「北方領土の日」です。必ず取り返しましょう。 — 《樺太はこうして掠め盗られた!日本が受けた列強の領土侵奪》 2016.07.18 別冊正論第25号『「樺太-カラフト」を知る』より 淺川道夫(軍事史学会理事・日本大学教授) ■ 樺太・千島の日本帰属は明白 歴史用語として知られる「蝦夷地(えぞち)」とは、現在の北海道だけではなく、その北方に位置する樺太や、択捉島・国後島などの千島を含む、日本の領土の総称である。その帰属はすでに江戸時代には明らかになっており、徳川家康から慶長九(一六〇四)年に「渡島(おしま)一帯の地及び唐太」の直轄を命ぜられた松前氏が、幌泉(ほろいずみ)を境に以南を「口(くち)蝦夷」、以北を「奥蝦夷」と称し、藩領として支配していた。 松前藩では、樺太の調査を数回にわたって実施し、元禄十三(一七〇〇)年には同地域の地名二十二カ所を挙げた「松前島郷帳」を幕府に提出しているが、当時まだ樺太の開発・経営にはほとんど手が着けられておらず、実効ある支配には至っていなかった。また千島については、享保年間(一七一〇年代)から松前藩の領地となっていたが、択捉・国後両島は少数の島民が原住民と雑居して平穏に漁業を営む辺境の地域であったことから、藩の強固な支配が及ぶことなく、なかば放置されている状態だった。なお、今日「北方四島」に含めて議論される色丹島・歯舞諸島は、もともと北海道の本島に属する地域であり、歴史的にも千島に含まれるものではない。 本稿では、現在も我国外交にとっての懸案事項となっている北方領土問題に関連して、ロシアの南下以前に日本が「蝦夷地」をどのように管理していたのか、また日露両国間での国境画定がどのようになされたのかを、歴史的に振り返ってみたい。 ■ ロシア南下に江戸幕府が防衛体制 ロシア人が「奥蝦夷」地域に進出しはじめたのは、十八世紀半ば以降のことである。ロシア人の同方面への進出は、ベーリング海軍中佐の率いる探検隊がカムチャッカを基地として享保十七(一七三二)年におこなった東方調査を皮切りに、元文四(一七三九)年のスパルベング海軍中佐を隊長とする調査隊の活動を経て、次第に活発化して行った。 そして明和年間(一七六〇年代後半)を迎える頃には、ロシアは得撫島(うるつぷとう)以北の千島諸島を征服して「クリル諸島」と命名し、各島に酋長を置いて「一男一狐貢納の制」を定め、原住民に毛皮の貢納を命じた。また樺太については、安永九(一七八〇)年にラペルーズの率いるロシア探検隊の船二隻が沿岸調査に訪れたのを手始めに、寛政元(一七八九)年にも沿岸測量のためのロシア船来航があり、ロシアの領土的野心は十九世紀に入って顕在化することとなった。 こうしたロシアの南下政策に対して、仙台藩医の工藤平助は『赤蝦夷風説考』を天明三(一七八三)年に著し、蝦夷地の開発と対露貿易の促進を説いて、老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。またこれに先立つ明和八(一七七一)年、長崎のオランダ商館長がベニョウスキー伯(カムチャッカから亡命したポーランド貴族)から受け取った書簡の中で、ロシアが蝦夷松前を攻撃するための陰謀を企てている旨の警告がなされたこともあり、幕府としても蝦夷地の現状を把握する必要に迫られていた。 田沼は、天明五(一七八五)年に普請役山口高品らを巡検使として蝦夷地に派遣し、実情調査をおこなわせた。しかし翌天明六年に田沼が失脚すると、田沼を中心とした蝦夷地開発計画は中止のやむなきに至った。ただし巡検使の一員であった最上徳内はその後も単身で千島の調査を続け、大石逸平も樺太の調査を続行して情報収集に努めるなど、ロシアの蝦夷地進出に対する警戒は続いた。 田沼失脚後、老中首座となった松平定信は、寛政の改革を通じて田沼政治の粛正を図って行くが、蝦夷地の防衛についても、その開拓と防備を幕府主導で推進しようとしていた田沼の方針を大きく転換した。すなわち松平定信の打ち出した方針は、蝦夷地の防衛は藩領を持つ松前藩に任せ、幕府は津軽海峡以南を固めて有事に備えるというもので、これは当時の幕府の財力や軍事力から見て現実的な施策であった。 (絵:ラクスマン一行が乗船した帆船エカチェリーナ号(根室市所蔵)) こうした折柄、ロシアの女帝エカチェリーナ二世によって最初の遣日使節に任命されたラクスマン(陸軍中尉)が、寛政四(一七九二)年に日本人漂流民大黒屋幸(光)太夫・磯吉らを伴って根室へ来航し、漂流民送還と引き換えに通商を要求した。 幕府は松前に目付石川忠房・村上義礼を宣諭使として派遣し、ラクスマンとの交渉にあたらせた。石川ら宣諭使は、漂流民を受け取る一方で、ロシア使節に信牌(長崎入港許可証)と諭告書を与え、通商を求めるならば長崎に行くよう指示した。結果的にラクスマンは、日本との通商を開くという目的を果たせぬまま、寛政五(一七九三)年に退帆した。 (絵:通商を要求する初のロシア遣日使節として根室に来航したラクスマン一行。左から3人目が光太夫、右端がラクスマン(天理大学附属天理図書館所蔵)) 幕府はラクスマンの来航をうけ、海防掛を新設して松平定信をその職に任じ、鎖国以来初めてといえる海防政策に着手した。松平定信は寛政五年一月、蝦夷地関について次のように建議し、将軍徳川家斉の決裁を得た(渋沢栄一『楽翁公伝』)。 ・蝦夷地の支配は、従来通り松前藩に任せる。 ・蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝を天領とし、そこに「北国郡代」を設置する。 ・有事の際は、南部・久保田両藩に出兵を命じて対処する。 ・洋式軍艦を四、五隻建造し、その半数を北海警備に充てる。 このような基本方針を踏まえ、幕府は、南部藩から三百七十九人、津軽藩から二百八十一人の兵力を動員し、松前警備を担当させた。しかし松平定信が同年七月に老中の職を退くと、こうした蝦夷地防衛の基本政策は中止の余儀なきに至った。ただし幕府としても、蝦夷地の防衛を具体化するための代案が必要であり、寛政十年には目付渡辺久蔵らに蝦夷地調査を命じて、新たな政策を立案するための情報収集に乗り出した。 これにより総勢百八十人に及ぶ調査隊が編成され、東西蝦夷地のほか択捉島・国後島への巡検が行われた。この時、択捉島に渡った近藤重蔵は「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を建て、同島が日本の領土であることを示した。翌寛政十一年、幕府は東蝦夷を上知して天領とし、南部・津軽両藩の兵力を駐屯させて外圧に備えるという施策に踏み切った。 次いで享和二(一八〇二)年、幕府は蝦夷地奉行(程なく箱館奉行と改称)を設置すると共に、東蝦夷地を「永久上知(あげち)」として、南部・津軽両藩に「永々駐兵」を命じた。こうして蝦夷地防衛の態勢を日本側が逐次整えつつある時、ロシア使節レザノフの来航を迎えることになった。 ■ ロシアは武力攻撃で日本を威圧 ロシア皇帝アレクサンドル一世により遣日全権使節に任命されたレザノフが、通商を求める国書を携えて日本に来航したのは、文化元(一八〇四)年のことである。レザノフは「露米会社」という、北太平洋において毛皮貿易や漁猟を行うための国策会社の支配人であり、かつて幕府がラクスマンに交付した信牌をもち、津太夫ら四人の漂流民を伴って長崎に入港した。 幕府側では、目付遠山景晋や長崎奉行肥田頼常、成瀬正定らが交渉にあたったが、その対応は冷淡で、遣日使節を半年以上もの間長崎に留め置いたのち、レザノフから出された修好・通商の要求を全て拒否し、翌文化二年に退帆させた。 (絵:長崎に来航したレザノフ一行。右から2人目がレザノフ(東京大学史料編纂所所蔵)) こうした日本側の態度に憤慨したレザノフは、千島・樺太方面での武力的な威嚇行動を企図し、海軍士官のフォヴォストフならびにダヴィノフに対し、その実行を指令した。 フォヴォストフは、文化三年九月に樺太の久春古丹を襲撃し、番人の拿捕や食糧の略奪を行った。続いて翌文化四年四月から五月にかけ、フォストヴォフとダヴィドフは択捉島の内保(ないぼ)や紗納(しやな)に対して同様の襲撃を行ったほか、樺太の於布伊泊(おふいとまり)や留多加(るうたか)でも襲撃を実行した。さらに礼文島沖における日本商船の拿捕・焼却や、利尻島への武力襲撃など、彼らの威嚇行動は「奥蝦夷」地域全体に及んだ。 幕府は文化四年、こうした「露寇」に対し、従来の南部藩・津軽藩に久保田藩・庄内藩を加えた三千人余の兵力を蝦夷地に派遣して警戒にあたらせ、「露船打払い令」を発して「オロシヤの不埒(ふらち)之(の)次第(しだい)に付、取締方きびしく致候条(いたしそうろうじよう)、油断なく可被申付(もうしつくべく)候」との姿勢を明らかにした。また松前藩に上知を命じ、その領地を陸(む)奥(つ)梁川に移して蝦夷地全域を幕府の直轄とする一方、箱館奉行を松前奉行に改組して蝦夷地を管轄させ、ロシアに対する海防強化を図った。 さらに文化五年には、仙台藩・会津藩の兵力が蝦夷地警備に加わり、守備兵の数は四千人余に拡大した。この時、千島の警備を担当したのは仙台藩で、択捉島に七百人、国後島に五百人の藩兵を派遣した。樺太の警備は会津藩が担当し、七百人の藩兵が派遣された(『通航一覧』第七)。 一方ロシア側では、日本との修好・通商を求める政府方針に反したものとして、千島・樺太方面で武力襲撃を敢行したフォヴォストフらを罰しており、その後「露寇」が発生することはなかった。こうした情勢を背景に幕府は蝦夷地の防衛体制を見直し、文化五年の末には、東蝦夷地の警備を担当する南部藩が択捉・国後の両島、西蝦夷地の警備を担当する津軽藩が樺太にそれぞれ藩兵を配置し、有事の際には久保田藩・富山藩へ出兵を命ずるという形に縮小した。また同年、間宮林蔵の調査により「間宮海峡」が発見され、樺太が島であることが確認された。翌文化六年、幕府は樺太を「北蝦夷」と改称した。 (絵:安政6年に久春古丹に赴いた秋田藩蝦夷地御警衛目付の道中記にある「クシュンコタン湊ノ図」(写本、北大北方資料室所蔵)) 文化八年には、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴロ―ニンを逮捕するという事件が起こったが、国後島沖でロシア側に拉致された高田屋嘉兵衛との人質交換が文化十(一八一三)年に成立し、これ以後日露関係はしばらくの間平穏となった。 かくて文政四(一八二一)年、幕府は蝦夷地を松前藩に還付することとし、それに伴って松前奉行を廃止、南部・津軽両藩にも蝦夷地から藩兵を撤収させた。旧領に復帰した松前藩は、蝦夷地の各地に十四基の台場と十一カ所の勤番所を設け、警備体制を整えて行った。 寛政年間(一七九〇年代)以降、千島方面におけるロシアの南下政策は日本側に阻まれ、得撫島以北の島嶼征服というラインに留まっていた。ロシアの東方進出を企てる皇帝ニコライ一世は、その矛先を日本の施政下にあった樺太へと転じ、同地域の占拠を露米会社に命じた。 東シベリア総督ムラヴィヨフを通じてこの指令を受けたバイカル号艦長ネヴェリスキーは、嘉永六(一八五三)年七月に樺太へ来航し、フスナイ河口に守備兵を駐屯させた。また陸軍少佐ブッセも、亜庭(あにわ)湾の久春古丹に上陸して駐兵を強行した。こうして樺太への足がかりを得たロシアは、従来からの要求であった通商の開始と、新たな要求となった樺太における国境画定という二つの課題を掲げて、日本に対する三度目のアプローチを試みることとなる。 ■ 樺太全島領有の「前提」にスキ ニコライ一世はロシアの樺太進出を企てる一方で、アメリカが日本開国のため艦隊派遣を計画しているとの情報を得ると、海軍中将プチャーチンをロシア極東艦隊司令長官兼遣日大使に任命し、遣日艦隊の編成を急いだ。プチャーチンは、ロシアの首相ネッセリロ―デから老中に宛てた国書を携え、軍艦四隻を率いて嘉永六年七月に長崎へ来航した。 長崎奉行大沢定宅は、老中阿部正弘の指示を仰いで穏便に国書を受け取り、ロシア艦隊の速やかな退去を促したが、プチャーチンは六十日以内の幕府からの返書と、幕閣との接見を要求し、長崎からの退帆に応じなかった。 幕府は筒井政憲・川路聖謨(としあきら)らを露使応接掛に任命し、プチャーチンと交渉させるべく長崎に派遣した。長崎における日露間の会談は、嘉永六年十二月に五回にわたって行われたが、通商や国境画定をめぐる双方の主張には大きな隔たりがあり、容易に決着を見なかった。 特に国境問題に関して、日本側は「択捉島ハ元来我所属タルコト分明ニシテ議論ノ余地ナク、樺太ハ各其所有ヲ糺シテ国境ヲ画定スヘク、『アニワ』湾駐屯ノ露国軍隊ハ我地ヲ奪ハントスルニ非スシテ外寇ニ備フルモノナリトノコトニ付境界確定アル上ハ之ヲ撤退セシムルヲ要ス」と主張したのに対し、ロシア側は「日本領ノ界ハ北ハ択捉島及樺太南部『アニワ』湾トス、樺太島上ノ分界ハ遅滞ナク両国官員会同シテ其所在地分ヲ画定」するとの姿勢を示し、結論は先送りとなった(「ロシア使節プーチャーチンと幕府大目付筒井肥前守政憲・勘定奉行川路聖謨との長崎日露交渉に関する文書(要旨)」)。 (写真:日露談判に当たった一人、川路聖謨) その要締は、千島における国境は択捉島と得撫島の間に画定することでほぼ合意したが、樺太については北緯五十度以南を自国領とする日本側の主張と、南端のアニワ湾を除く全島が自国領だとするロシア側の主張が対立したため、両国が官員を派遣して実地見分を行ったうえで画定する、ということになったのである。 その後、日露交渉の場は伊豆の下田へと移され、安政元(一八五四)年十一月に九カ条から成る「日露和親条約」が締結されることとなった。この条約によって、日本はロシアに対し箱館・下田・長崎を開港する(第三条)こととなり、あわせて日露双方が領事裁判権をもつこと(第八条)も規定された。 他方、領土問題(特に樺太における国境線画定)について、幕府は樺太全島が日本所領と認識しており、老中阿部正弘はその旨主張すべしとする訓令を川路らに発していた。そのため日露間での最終的な妥結に至らぬまま、次のような暫定的取り決めがなされることとなった。 […]
02/06/2017 06:08:50 PM
高田純次さんの「じゅん散歩」(テレ朝 09:55~)、今週は中野区西武新宿線沿線の様です。 月:野方 火:新井薬師 水:鷺宮 木:沼袋 金:都立家政 https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/723342391166633