カテゴリ:facebooklog
07/19/2017 08:05:13 PM
沖縄出身者だからこそ、説得力があります。 ご案内致します。 https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/814913458676192
07/19/2017 08:51:37 AM
国籍について嘘をつき法を犯した人が国会議員を続けようとしないで下さい。辞職して下さい。 — 《【更新】蓮舫代表は国籍離脱について嘘をついている》 2017.07.18 池田信夫 きょうの蓮舫代表の臨時記者会見は、おおむねアゴラで予想した通りだったが、意外なのは台湾政府の国籍喪失許可書(2016年9月13日付)が出てきたことだ。 蓮舫事務所が国籍喪失の申請をしたのは9月6日なので、わずか1週間で許可が下りることはありえない(通常は2ヶ月以上かかる)。先週は弁護士が「証拠として国籍離脱申請書を出す」といって失笑を買ったが、今週になって許可書が出てきたのもおかしい。 しかも台湾政府のウェブサイトには、12月17日まで「10月17日に内政部で審査が終わって外交部に送った」と書かれていたので、3ヶ月以上も遡及して国籍喪失を認めたことになる。この日付の遡及だけでも、公的記録を改竄したことは明らかだ。 さらに奇妙なのは、彼女のパスポートが1984年7月15日に失効していることだ。台湾政府の国籍喪失には現在有効な中華民国の旅券が必要なので、このパスポートでは国籍喪失の許可は下りない。 一つの説明は彼女が有効なパスポートを提出した(2016年まで台湾パスポートを更新していた)ということだが、それでは1984年に失効したのはおかしい。これは国籍法の改正にともなう経過措置(附則第5条)で台湾国籍を離脱しないで日本国籍を取得したためと思われる(彼女も附則5条と説明している)。この場合も経過措置の終わる3年以内に国籍離脱が必要だが、それを忘れると違法状態になる。 これは一般人の場合には大した問題ではないが、彼女は「私は在日の中国国籍」などと公言する一方、2004年の選挙公報に「1985年に台湾から帰化」と書いた。これはどちらかが嘘である。きょうの会見では「帰化」が虚偽記載だったことを認め、「台湾籍を抜いていないとは知らなかった。故意ではない」と弁解したが、それなら90年代に「二重国籍」を売り物にしたのはなぜか。 答は彼女が二重国籍の事実を知りながら「帰化した」と嘘をついたということしかない。パスポートが失効していることは知っていたかもしれないが、それは一般人ならばれない。ところがアゴラで指摘され、30年以上たってから台湾代表処に持って行っても、パスポートが失効しているので国籍喪失の手続きはできない。 ここから先は推測だが、蓮舫事務所が台湾代表処に「政治的配慮」を求めたのではないか。彼女が二重国籍だということが確定すると民進党代表の地位が危うくなるので、台湾政府が超法規的に旅券を更新し、遡及して国籍喪失を認め、彼女はこの事実を口外しないという取引をしたのだろう。 しかしこの嘘は、辻褄が合わない。パスポートが1984年に失効していたら2016年に国籍喪失の手続きはできないし、国籍喪失できたとすれば有効なパスポートをもっていたことになる。これは絶対絶命の二律背反だが、ただ一つ明らかなことがある:彼女は嘘をついているということだ。 http://agora-web.jp/archives/2027277.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/814654018702136
07/19/2017 02:06:03 AM
蔡焜燦氏、逝去。私も訪台した折、何度かお目にかかる機会を頂きました。日本の台湾統治を素晴らしかったと高く評価され、「日本精神」に誇りを持ち、戦後の日本と台湾を憂うる一方、酒席では茶目っ気たっぷりな陽気な方でした。心よりご冥福をお祈りし、ご遺志を受け継いで参ります。 — 《日本を愛した「老台北」蔡焜燦氏が死去 日本への最後のエール》 2017.07.18 NEWSポストセブン 作家・司馬遼太郎が『台湾紀行』(『街道をゆく』シリーズ第40巻)を取材した際の案内役を務め、同作中で「老台北(ラオタイペイ)」として登場したことで知られる蔡焜燦氏が、7月17日、台北市内の自宅で世を去った。享年90。 蔡氏は日本統治時代の1927年、台湾・台中市に生まれた。台中州立彰化商業学校を卒業した後に、志願して岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入校し、日本で終戦を迎える。帰台後は体育教師を務めた後に実業家に転身、半導体デザイン会社「偉詮電子」会長などを歴任。一方で短歌を愛好する「台湾歌壇」の代表として日本文化を広く紹介してきた功績が評価され、2014年春の叙勲で旭日双光章を受章した。 長く日台交流に尽力し、親日家を超えた「愛日家」と呼ばれた蔡氏は2001年に『台湾人と日本精神』(小学館文庫)を上梓。台湾では現在も「日本精神(リップンチェンシン)という言葉が「勤勉で正直、約束を守るというもろもろの善いことを表現する言葉」であることを作中で紹介するとともに、日本の台湾統治時代を高く評価し、“かつての祖国”に向けて「日本人よ胸を張りなさい」と呼びかけた。 『台湾人と日本精神』は、2015年に小学館より『新装版 台湾人と日本精神』としてリニューアル刊行された。同書のあとがき「愛日家の遺言」として、蔡氏はこう記した。 〈素晴らしき日本統治時代を知る生き証人が次々とこの世を去ってゆく悲しみは筆紙に尽くしがたい。だが、私はこうして元気で暮らしている。もしかすると、「老骨に鞭打ってでも、かつての祖国・日本にエールを送り続けよ」という先に逝かれた方々の思し召しなのかもしれない〉 〈私は死ぬまで日本と日本人にエールを送り続ける。自虐史観に取り付かれた戦後の日本人に、かつての自信と誇りを取り戻してもらいたいのだ。どうか日本の皆さんにお願いしたい。かつて文豪・司馬遼太郎先生がそうであったように、台湾にお越しいただいて自らの足で台湾を確かめ、そして自らの目で台湾を見てほしい。(中略)拙著がその道案内役となれば、これに勝る喜びはない。 何度でも言わせていただく。 「日本人よ! 胸を張りなさい!」 愛してやまない日本国と日本人へ、私からの“遺言”である〉 日本人として祖国を誇りに思い、そして台湾人となってからも日本を愛し、憂い、励まし続けた蔡氏のご冥福をお祈りする。 写真:日本を愛した「老台北」蔡焜燦氏が死去 http://www.news-postseven.com/archives/20170718_593458.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/photos/a.188901204610757/814486528718885/?type=3
07/19/2017 01:38:04 AM
もう数少ない明治生まれの方でした。100歳を超えても精力的に活動され、医療の発展のみならず、命と生き方の問題に取り組み続けた日野原重明先生。延命治療を拒否し逝去されました。 私も、経団連事務局で機関誌やセミナーを担当していた時にお世話になりました。謹んでご冥福をお祈り致します。 — 《【日野原重明さん死去】地下鉄サリン対応で病院「開放」、先頭で対応》 2017.07.18 産経新聞 日野原重明さんは、平成7年3月に13人が死亡し、約6300人が負傷したオウム真理教による大規模テロ「地下鉄サリン事件」の際には、院長として聖路加国際病院を開放する決断を下し、被害者対応のリーダーシップを執った。 同病院の福井次矢院長によると、当時83歳だった日野原さんは「これはただ事ではない」と直ちに判断、外来患者の診察など通常の業務をほとんど全て中止した上で、被害者約640人を受け入れたという。 受け入れができた背景には、日野原さんの“備え”もあった。事件発生3年前に完成した新病棟は、視察先の北欧の病院からヒントを得た日野原さんの発案で、大災害の発生を見据え、廊下や待合室などの壁面に酸素の配管が2千本近く張り巡らされ、広いロビーや礼拝堂施設も設けられた。事件では廊下や礼拝堂は緊急応急処置場として被害を抑える役割を担った。 写真:日野原重明さん(門井聡撮影) http://www.sankei.com/life/news/170718/lif1707180051-n1.html https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/photos/a.188901204610757/814473355386869/?type=3
07/18/2017 09:11:54 PM
「劉暁波追悼キャンドルナイト」参加しましょう。 — #劉暁波追悼キャンドルナイト #日本全国同時 #中国民主化 日時:2017年7月21日(金) 19:00~21:00の間にいつでも 場所:それぞれの場所で。 上記時間内にキャンドルを灯した画像に #劉暁波追悼キャンドルナイト などのタグを付け SNSにUPしましょう。 ◎東京・大阪・福岡では公園で集まりキャンドルを灯すことも可能です。(東京は火気不可のためLEDキャンドルをご使用ください)各地域の予定はイベント内各スレッドをご参照ください。 ◎地域での集まり掲載をご希望のお方は本イベント共同主催者の誰かにメッセージくださいませ。 以下はこの追悼の趣意書です。 2017年7月13日、ノーベル平和賞受賞者でもある劉暁波さんが死去したとの報は、世界中の自由と民主主義を愛する人々に深い悲しみを与えました。 彼は天安門事件のリーダーの一人として学生を率い、弾圧間近には軍と交渉し撤退をしながらも事件後は投獄されました。出所後も国内に留まり、犠牲者の名誉回復や、民主化を訴え続け、その後四度にわたり投獄されました。 この彼の知性と非暴力で自由や基本的人権の尊重や民主化を粘り強く求め続けた姿は、中国民主化のみならず、同様の権利を求める人々にとっての灯となりました。 2008年、中国共産党の一党独裁の放棄や言論の自由を呼び掛けた「08憲章」の起草者の中心人物として中国当局は国家政権転覆扇動容疑で逮捕しました。 彼は自身の国を愛し、民主化を訴えただけです。中国当局は彼から自由を奪い、家族を含めて迫害し、執拗に弾圧した結果、中国共産党は彼の命をも奪っていったのです。 病状が発表されてからのいかなる中国当局の言い訳がましい偽りの宣伝も、世界中には彼の崇高な信念に注目が置かれ、海外で治療の機会をとの声が高まりましたが、出国叶わず、ついに死に至らしめたのです。 私たちは、残忍な中国共産党独裁政権を許しません。 私たちは、彼がともした灯を決して絶やすことなく、闘い続けます。 心にともしたこの信念の炎は、必ず中国共産党独裁政権国家を終わらせることになるでしょう。 2017年7月21日 日本全国同時劉暁波追悼キャンドルナイト実行委員会 https://www.facebook.com/koichiro.yoshida.jp/posts/814380985396106