2014/03/10 17:50

《混迷のウクライナ、その歴史的経緯》

ウクライナの人々は、「諸民族の牢獄」ツァーリの専制とソビエトの独裁に苦しめられてきました。

以下、記事抜粋。

 国内を分断する線には歴史的背景がある。ウクライナ東部は17世紀後半、西部よりもずっと早く帝政ロシアの支配下に入った。東部ではロシア語を話し、ウクライナ正教を信仰する傾向が強いが、西部一帯ではウクライナ語が使われ、カトリックの影響が濃い。

 17世紀、帝政ロシアとポーランド・リトアニア共和国との間の戦争により、国内の亀裂が深まった。ウクライナのうちドニエプル川の東側の土地が、西側の土地よりもずっと早く帝政ロシアの支配下に入ったのだ。その後、東側は産業と石炭産出の中心地「左岸」として知られるようになった。一方、ドニエプル川よりも西側の土地「右岸」はポーランドに支配されることになる。

 ロシアの女帝エカテリーナ2世の統治下で、ウクライナ東部のステップ地帯は、石炭と鉄の産出により経済の主要な中心地に成長。田舎で話されていたウクライナ語は皇帝からの布告で2度禁止されたと、カラトニツキー氏は話す。

 1930年代前半、ソビエトの指導者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は農民を強制的に集団農場に組み入れるため飢饉を発生させ、その結果、飢餓で数百万のウクライナ人が死亡した。その後、スターリンは東部地域の人口回復のため、大勢のロシア人や他のソビエト連邦の住民をウクライナに移住させた。その多くはウクライナ語を話せず、ウクライナにほとんど縁のない人たちだった。

 「環境特性地図にもウクライナの地域差を見ることができる。南部と東部がステップとして知られる肥沃な農地を有し、北部と西部は比較的森林に覆われているのが分かる」と語るのは、ハーバード大学歴史学教授で同大学ウクライナ研究所ディレクターを務めるセリー・プロキー(Serhii Plokhii)氏だ。同氏の研究所にはステップ地帯と森林地帯の境界を示す地図があるが、ウクライナを東西に分ける斜めの線が走り、2004年と2010年の大統領選での投票行動を表した地図と「非常に似通って」いるという。