世界の外交史を見ると、政治家はどうしても、自分の任期中に成果を上げようという欲を持ってしまい、守らねばならなかった原則的立場を取り返しのつかない形で逸脱し、国益を甚大に失う事がしばしば起きます。
そもそも自国の原則的立場を打ち立て、貫くという事が苦手な我が国では、特にその傾向が強い。
100年後の評価に耐える外交を願います。
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《【正論・北方領土】安倍式「対露アプローチ」に望む ロシアに先走って経済協力を与える愚冒すな》
2016.06.01 産経新聞 木村汎 北海道大学名誉教授
≪抗議に立ち上がって然るべきだ≫
わが国のソ連/ロシアに対する態度は、長いあいだ単純明快だった。すなわち、北方四島の対日返還を実現して平和条約を結ぶことだ。四島は、1855年の日露通好条約以来、帝政ロシア/ソ連すら日本領土として認める地域だったにもかかわらず、スターリンは日ソ中立条約を侵犯して、同地域の軍事占領を敢行した。したがってロシアは、一刻も早く四島を無償、いや70年分の利息さえつけて対日返還すべきである、と。
わが国の要求は、さらなる説得力をもつ。第二次世界大戦を終結するに当たり米・英・仏・ソ連など連合国の首脳たちは「領土不拡大の原則」に同意し、戦勝国筆頭の米国は沖縄返還に応じた。以来、力ずくの国境線変更は、いかなる国にも許されない国際法上の大原則になっているからである。
それにもかかわらず、プーチン・ロシアはジョージアやウクライナの一部を、武力を背景に占拠したり、併合したりした。国際原則の重大な侵犯行為に他ならない。同様の運命に苦しんでいる日本は他国に率先して、抗議に立ち上がって然るべきである。そうしなければ、日本は己の利益のみを追求するだけで、他国が同様の運命に遭っても冷淡-このような二重基準を採る国と誤解され、国際的な尊敬をかち取りえないに違いない。中国や韓国も、日本の領土観をきわめて便宜的、利己的なものと侮ることだろう。
ところが、ロシア人相手の場合、正論を唱えているだけでは、いつまでたっても島は還ってこない。70年間に、元島民1万7000人の3分の2が既に他界してしまった。根室周辺地域は、流し網漁が禁止されているだけによっても、250億円の損失を被っているという。
≪提起された経済と領土のリンク≫
学者とは異なり、政治家は現実の力関係や利害も考慮に入れる。前者が領土返還要求を国の尊厳と存立を懸けた原理・原則の問題と捉えるのに対して、後者はそれをロシア人相手の交渉としても捉える。交渉では、交渉当事者がさまざまな争点や項目に与える優先順位の差異に注目することによって妥協が可能になる。当事者Aが最も欲するものは、必ずしも当事者Bが最も欲するものとはかぎらないからである。
キッシンジャーはこの交渉の要諦を熟知していたが故に、アラブ諸国とイスラエル間の交渉を「領土と安全保障との交換」へまとめ上げることに成功した。東西ドイツの統一、中露国境交渉(2004年)の妥結も、煎じ詰めると「領土と経済との取引」によって可能になった。
安倍晋三首相は5月6日、ソチで日露非公式会談を行った際、プーチン大統領に向かい「新たなアプローチ」を提案したと伝えられる。同提案の中身は、何か。
端的にいえば、日本からの経済協力と取引の形で北方領土返還をかち取ろうとする戦略だろう。首相が同時に提示した「8項目」の内容からそのような解釈が可能であり、そのように推測し得る場合、さらに次のように述べることができるだろう。
政治家である安倍首相は、学者らが説く理屈一点張りの発想やアプローチを採らない。歴史的、法律的な観点からいえば、北方四島が日本固有の領土であることは間違いない。ところがそのような正論を何十年、唱えていても、法律を尊重しないロシア人相手にはまるで糠に釘だ。父の安倍晋太郎元外相以来、「領土問題を解決しての平和条約締結」を己の首相在任中に実現するためには、ぜひとも起死回生の妙手を試みる必要があろう。こうして提起されたのが、経済と領土をリンクさせるアプローチに違いない。
≪二度と煮え湯を飲まされるな≫
だが、政経リンケージ(連結)は、安倍氏以前の首相たちも試みては失敗を重ねた戦術である。加えてプーチン大統領らロシア側も警戒の念を表明している。ならば、表向きはリンクしないものの背後でリンクさせる高度に洗練された戦術を採るか、歴代の日本首相が試みえなかった大規模な対露協力をしてロシア人を圧倒し、同意をかち取るか。これ以外の道はなかろう。
首相の政経リンケージ作戦の実務を担当するのは、官僚、なかんずく外務省の対露専門家集団に他ならない。今さらのごとく彼らに希望したいのは、ゆめゆめロシア側に先走って経済協力を与える愚を冒してはならぬことだ。当然のごとく交渉者は欲しいものを先にとろうとし、入手後はその対価を一切払おうとしないばかりか、さらなる要求すら行いがちである。
ロシアはこの手の常習犯であり、日本側は得手勝手なロシア式戦術によって幾度となく煮え湯を飲まされつづけてきた。
政治は、ロシア語でいう「パカズーハ(見せかけ)」の知恵比べだといえる。日本側も、極端に言えばうなぎの匂いだけを嗅がせるだけに止(とど)めて、ロシア側の動きをじっくり見定める慎重な態度で臨むよう、ぜひとも念を押したい。
北海道大学名誉教授・木村汎(きむら ひろし)
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