毛沢東は、「中華人民共和国」が「中共軍が日本軍を打倒して誕生した国」だとは思っていない。抗日戦勝は主として国民党軍がもたらしたものだと、自分自身が戦ってきたから完全に分かっている。もし、抗日戦勝日を祝えば「国民党を讃える」ことになってしまうので、抗日戦勝記念日を祝おうとはしなかった。そして、国民党軍を倒して誕生した国であると認識しているので、建国記念日である国慶節(10月1日)は、毎年盛大に祝った。
中華人民共和国が抗日戦勝記念式典を開催し始めたのは、江沢民時代の1995年からである。
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《毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない》
2015.08.25 遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長-筑波大学名誉教授
中国はいま抗日戦勝記念行事で燃え上がっている。しかし中国建国の父、毛沢東は、抗日戦争勝利記念行事を一度も行ったことがない。建国以来の推移を見れば、習近平政権の異様さが際立ってくるだろう。
◆1950年代における抗日戦勝日の行動
中国(中華人民共和国)が1949年10月1日に誕生すると、その年の12月23日に中央人民政府政務院(現在の国務院に相当)が抗日戦争勝利記念日を8月15日にしようと決定した。しかし実際には実行されておらず、1951年に8月13日に、記念日を「9月3日」にすると、文書上で決めた。
毛沢東はそれにも従わず、9月2日にソ連のスターリンに祝電を送ることだけしかやっていない。
中共中央文献研究室が編集し、中央文献出版社から出版した『毛沢東年譜』に基づいて、9月2日前後に、毛沢東がどのような行動を取ったか、また抗日戦勝日記念行事を行ったか否かを、以下に記す。
●1950年:抗日戦勝に関しては、いかなる行事も行っていない。
●1951年:9月2日に、毛沢東がソ連のスターリンに向けて祝電を送った。内容は「抗日戦争勝利6周年に際し、中国人民解放軍と中国人民を代表して、あなた(スターリン)とソ連武装部隊およびソ連人民に熱烈な祝賀と感謝を表する」。これ以外のことは、何もしていない。国内行事はゼロ!
●1952年:9月2日に、毛沢東がソ連のスターリンに向けて祝電を送った。内容は「抗日戦争勝利7周年に際し、私と中国人民解放軍および中国人民の、あなたとソ連武装部隊およびソ連人民に熱烈な祝賀と衷心からの感謝を送ります」。国内行事はゼロ!
●1953年:9月2日に、周恩来がソ連のマレンコフ(第二代閣僚会議議長)とモロトフ(外相)宛てに祝電を送った。スターリンがこの年の3月に他界したから、祝電の送り主は毛沢東ではなく周恩来に格下げした。電文の内容は51年および52年と同じだが、そのほかに朝鮮戦争休戦協定を祝する内容と、「朝鮮戦争における成果は、正常な関係樹立を望む日本人民の要求実現を助け、日本が再び帝国主義侵略の道を歩まないようにすることに寄与する」という文面を含んでいる。日本の一部の者が中国との交流を望んだことを指している。ちなみに同日、毛沢東は習近平の父親・習仲勲らと別件で談話している。国内行事はゼロ!
●1954年:9月2日に、周恩来がソ連のマレンコフ、モロトフ宛てに祝電。特徴はアメリカ帝国侵略集団が日本に軍国主義を復活させようとしていることを痛烈に非難。日米安保条約に関して抗議し、協力団結を呼び掛けている。台湾解放にも触れている。国内行事はゼロ!
●1955年~59年:抗日戦勝に関しては一切触れていない。もちろん国内行事はゼロ!
このように1950年代、中ソ対立が生まれる1955年までは、ただ単にソ連に祝電(謝意)を送っているだけである。つまり、「抗日戦争はソ連のお蔭で勝利した」という位置づけをしていることが分かる。
◆1960年以降~毛沢東逝去(1976年9月9日)まで
●1960年:抗日戦勝行事は一切なし。
ただし、9月1日にメキシコ代表と対談し「日本人民は素晴らしい人民だ。第二次世界大戦では一部の軍国主義者に騙されて侵略戦争をしただけだ。戦後はアメリカ帝国主義に侵略され、日本にアメリカ軍の基地を作っている。アメリカ侵略国家は台湾にも軍事基地を置き、我が国を侵略しているのは許せないことだ」という趣旨のことを語っている。
●1961年~1969年:抗日戦勝行事は一切なし。ただし1965年から、10年ごとに記念切手を出している。
●1970年~1976年:抗日戦勝行事は一切なし。
ただし、1972年9月には、日本の田中角栄元首相の訪中と日中国交正常化に関する記述に多くのページが割かれ、日本を讃えている。
国交正常化したからと言って、突然、そのあとに対日強硬路線を取る傾向は皆無で、日本に対して非常に友好的だ。
以上見てきたように、現在の中国(中華人民共和国)を建国した毛沢東は、中国とは、「中共軍が日本軍を打倒して誕生した国」だとは思っていない。中国国内における抗日戦勝は主として国民党軍がもたらしたものと知っている。自分自身が戦ってきたのだから、完全に分かっている。
もし、抗日戦勝日を祝えば、まるで「国民党を讃える」ということになってしまう。
それを避けるためにも、毛沢東は抗日戦勝記念日を祝おうとはしなかったのである。
そして中国とは、国民党軍を倒して誕生した国であると認識しているので、建国記念日である国慶節(10月1日)は、毎年盛大に祝っている。正常な感覚だ。
8月10日付の本コラム戦後70年有識者報告書、中国関係部分は認識不足に書いたように、安倍談話に向けた日本の有識者懇談会が出した報告書の4の「(1)中国との和解の70年」の「ア 終戦から国交正常化まで」には、とんでもない間違いが書いてあった。その文言は「一方、中華人民共和国に目を向けると、1950年代半ばに共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行うようになった」というものだが、これがいかに間違っているかは、今回のコラムをお目通し頂ければ一目瞭然だろう。
日本の「有識者」は、最近の中国の現象から過去を推測しているのだろうか、あるいは中共の宣伝に洗脳されてしまっているのだろうか。
毛沢東は「日本に厳しい歴史教育や反日教育」などしていないどころか、抗日戦勝記念日さえ無視してきたのである。
問題は、それに比べた現在の中国、特に習近平政権の「抗日戦勝と反ファシスト戦勝70周年記念」に対する、あまりの熱狂ぶりだ。
抗日戦争勝利の日から遠ざかれば遠ざかるほど熱狂的になり、なりふりをかまわず歴史を歪めている。
このような現象が起き始めたのは江沢民以降だが、その原因と推移は別途論じることにしよう。
遠藤誉
東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 完全版』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』『卡子(チャーズ) 中国建国の残火』『チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男』『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国人が選んだワースト中国人番付 やはり紅い中国は腐敗で滅ぶ』『完全解読 「中国外交戦略」の狙い』など著書多数。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20150825-00048788/
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《抗日戦勝記念式典は、いつから強化されたのか?》
2015.08.26 遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長-筑波大学名誉教授
毛沢東時代には行なわれていなかった抗日戦勝記念式典は、いつから行なわれるようになったのか? 習近平政権を読み解くには、そのきっかけと推移を考察し、逆行する対日強硬論の根源を探らなければならない。
◆大々的な式典は江沢民時代の1995年から始まった
8月25日付けの本コラムで、「毛沢東時代は抗日戦勝記念を祝ったことがない」と書いたが、それならいったいいつから、そしてなぜ抗日戦勝記念式典を行うようになったのだろうか?
まず結論から言えば、大々的な式典という形で開催し始めたのは江沢民時代の1995年からである。
式典という形でなく、北京やその他の地方における地域性の座談会的なものは、改革開放後の80年代初頭から徐々に始まっている。しかしそれも、江沢民が国家主席になるまでは、全国的な行事ではなく、また式典という形で行われたことはない。
1995年5月9日、第二次世界大戦終結50周年という大きな節目にあたり、冷戦構造崩壊後の旧ソ連すなわちロシアにて、「世界反ファシズム戦争勝利50周年記念」が開催された。当時の中国の国家主席・江沢民は、当時のロシアのエリツィン大統領の招聘を受けて、会議に出席した。
連合国側の国家として戦ったのは「中華民国」なのだから、「中華人民共和国」が連合国側の国家として招聘されるというのは、奇妙な話だ。しかし「中華人民共和国」が「中国」を代表する国家として国連に加盟していたので(1971年)、中華民国の業績も中華人民共和国の業績として受け継ぐことになったと解釈することが許されたと、中国は思ったにちがいない。
江沢民にとっては、どれだけ誇らしく、かつ自信をくすぐる大きな出来事だったか、想像に難くない。
1950年代半ばから、ソ連とは中ソ対立があり敵国同志だったが、そのソ連が1991年末に崩壊しロシアとなったため、ようやく中国と和解したしるしでもあった。
その夜、モスクワのクレムリン宮殿では、式典を祝賀するための晩餐会が開かれ、各国首脳が顔をそろえていた。午前中に開かれた記念式典でスピーチをした首脳は、この晩餐会ではもうスピーチをしないことになっていたのだが、司会者がなぜか、アメリカのクリントン大統領やフランスのミッテラン大統領をはじめ、主たる国家の首脳を再び壇上に上がらせ、乾杯の音頭のための挨拶をさせ始めた。
舞台下の宴会場には、江沢民国家主席がいた。しかしいつまでたっても江沢民の名前は呼ばれない。見ればアジアから来た国家代表は江沢民だけではないか。「欧米首脳にのみ舞台に上がらせて、中国人民を代表するこの私(江沢民)を舞台に上げないとは何ごとか!」
江沢民は乾杯を拒否してエリツィンの秘書を呼びつけ、自分にも祝杯の辞を述べさせろと要求したが、反応がないまま、舞台のマイクが下げられ、次の催しに入ろうとしていた。
江沢民は怒った。
自分で直接エリツィンのもとに走って行き、「中国の代表として発言を求める」とエリツィンに迫った。エリツィンはすぐに同意し、江沢民は舞台に立った。あわてて元に戻されたマイクに向かって、江沢民は声高々と次のように語った。
――私は中国政府と人民を代表して、すべての反ファシスト戦争勝利に貢献した国家と人民に熱烈なる祝賀を表するとともに、かつて中国人民による抗日戦争を支え援助してくれた全ての国家と人民に心からなる感謝と敬意を表したい。
この瞬間から、中国共産党の抗日戦争は「世界反ファシズム戦争」として位置づけられるようになった。
そして同年9月3日、中国では盛大なる「抗日戦争勝利記念大会」が全国的な国家行事として開催され、おまけにこれを「世界反ファシスト戦争勝利記念大会」と位置付けるようになったのである。
人民大会堂におけるスピーチの中で、江沢民は次のように述べている。
――私がここで特に明らかにしなければならないのは、ソ連、アメリカ、イギリス等の反ファシズム同盟国家は、中国の抗戦に人力的にも物質的にも甚大な支持をしてくれた。したがって抗日戦争に勝利した紅旗の中には、こういった各国の友人たちの血の跡が刻まれている。
なんと、中国共産党にとって神聖であるはずの紅旗(赤旗)の紅い血の色の中に、アメリカの血が入っていると言ったのだ。世界が「赤化」することを最も警戒していたアメリカに対してである。
◆愛国主義教育が反日教育に
本来、1994年に江沢民が始めた愛国主義教育は、1989年の天安門事件を受けたものだ。中国の若者が、改革開放によって開けられた窓から入ってくる欧米、特にアメリカの文化思想に触発されて、民主化を叫び始めた。そのため「欧米の文化と思想だけが優れたものではなく、中国には中国伝統の文化と中国特有の思想があるので、それを愛せよ」というのが、最初の「愛国主義教育」の出発点だった。
しかしモスクワにおける経験は江沢民に「中国は世界反ファシズム戦争の重要な一部分なのだ」ということを世界に大きくアッピールしたいという激しい渇望を与えたにちがいない。
それからというもの、全国に愛国主義教育基地をつぎつぎと建設し始め、膨大な数に上る「抗日戦争遺跡」を愛国主義教育の学習要領の中に組み込んで、その見学をすることを義務付けていったのである。
かくして「反日的思考」が若い世代の中に醸成されていった。
この若者たちはやがてインターネット空間の中で言論活動をおこなうようになり、中国政府への不満を「反日運動」の中で爆発させるに至る。ネットユーザーの数が6億を越える今では、逆に中国政府がネットユーザーにおもねるという現象を来たし、対日強硬策は後戻りできなくなっているのである。
◆江沢民には個人的な理由が……
江沢民がトウ小平の指名を受けて中共中央総書記に就任したのは天安門事件後間もない1989年だが、国家主席に就任したのは1992年3月である(全人代の承認が必要)。
上海から突然中央にやってきた「おのぼりさん」を、北京派閥たちは嫌った。中でも北京市の書記をしていた陳希同は、自分が次期国家主席に指名されるべきだという願望を持っていたので、トウ小平に江沢民の出自をばらした。
江沢民の実父は、日中戦争時代、日本の傀儡政権であった汪兆銘政権管轄下にあった「ジェスフィールド76号」(通称:76号)という特務機関の官吏だった。だから金持ちの家で育っただけあって、江沢民はピアノも弾ければダンスもできる。酒が入れば炭坑節だって歌い出す。
ところが日本が敗戦すると、あわてて実父の弟の革命烈士(中国共産党員)の養子になったと偽り、共産党に入党した。今ではその過去を知らない人は少ないが、当時は、こんことを口にするのは絶対にタブーだった。陳希同を恨んだ江沢民は1995年に陳希同を牢屋にぶち込み、出自の過去を封印した。もし出自の秘密がばれたら、「売国奴」と罵倒され、国家主席どころか、共産党員になる資格さえない。
そこでその封印をより強固にして、「自分がいかに反日であるか」を人民に植え付けるために、「反日」を声高に叫んだのである。
反日傾向に逆らう者は、逆に「売国奴」として罵倒される。
以来、自分が「売国奴」あるいは「売国政権」と罵倒されないようにするために、国家指導者の対日強硬路線は強化されていくばかりなのである。
遠藤誉
東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 完全版』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』『卡子(チャーズ) 中国建国の残火』『チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男』『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国人が選んだワースト中国人番付 やはり紅い中国は腐敗で滅ぶ』『完全解読 「中国外交戦略」の狙い』など著書多数。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20150826-00048811/