2015/01/04 2:58



ペリリューの有名な逸話。
〈島民が一緒に戦いたいと申し出ると、「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。その瞬間、あの言葉は島民を救うためのものだった-と悟った〉

遠いペリリューでも日本軍は島民を疎開させ、玉砕しました。沖縄でも日本軍は、米軍の上陸前は島民の疎開に努め、上陸後は必死に保護しつつ倒れていった、その記録や証言が山ほど残っています。それらを全て、初めに米軍が、その後を継いで左翼が書き換え「残虐な日本兵」の捏造を続けている。この冒涜行為が許される事は決してありません。真実が必ず彼らを処罰するでしょう。

《【天皇の島から 戦後70年・序章(1)前半】
時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵》
2015.01.02 産経新聞

 先の戦争が終結してから今年で70年を迎える。産経新聞では年間を通じ、「戦後70年」を紡いでいく。序開きとして、天皇陛下と日本を考えてみたい。天皇、皇后両陛下は今年、パラオ共和国を慰霊のため訪問される。パラオは昭和20年までの31年間、日本の統治下にあり、ペリリュー島は日米間で壮絶な地上戦が繰り広げられたが、島民が犠牲になった記録はない。両陛下の念願だったとされるパラオご訪問を前に、米軍が「天皇の島」と呼んだ南洋の小島から歩みを始める。(編集委員 宮本雅史)

 平成26年12月初旬、ペリリューは、島を覆うジャングルが強い日差しを受けて緑に輝いていた。島民600人の多くが住む北部のクルールクルベッド集落は、ヤシの木に囲まれた庭の広い民家が立ち並び、カフェからは英語の音楽が流れる。ハイビスカスが咲き、のどかな雰囲気に時間が止まっているような錯覚すら覚える。

 だが、ジャングルを縫うように車を走らせるに従って、そんな印象は一変する。破壊された米軍の水陸両用戦車、日本軍戦車、52型零式艦上戦闘機…。至る所に激戦の爪痕が残る。

 案内をしてくれたウィリー・ウィラードさん(53)によると、日本軍守備部隊は、兵隊1人が入れる蛸壺状から数百人が入れる洞窟まで500個を超える洞窟陣地を構築、大部分は内部で行き来できるようになっていたという。島全体が要塞。島の真の姿に気づくのに時間はかからなかった。

■ 米の予想上回る抵抗

 米軍がペリリューに上陸したのは昭和19年9月15日。人員で守備部隊の4倍、小銃は8倍、戦車は10倍という圧倒的な布陣を敷いた米軍は、島の攻略についても、「スリーデイズ、メイビー・ツー(3日、たぶん2日)」と豪語していたという。

 だが、その予想は大きく裏切られる。米軍は第1次上陸作戦で第1海兵連隊の損害が54%に達したため、第1海兵師団が撤収、第7海兵連隊も損害が50%を超えて戦闘不能に陥った。

 「軽機関銃の銃身が熱くてさわれないくらい夢中に撃ちまくった。敵味方入り乱れて、殺したり殺されたりの白兵戦で、地獄絵図そのものだった」

 そう述懐する水戸歩兵第2連隊の元軍曹、永井敬司さん(93)は、数少ない生還者の一人だ。「食糧や弾丸がすぐに底をついた。空からも海からも補給はなく、米軍の食料や戦死した米兵から武器と弾薬を奪った。3日も4日も寝ないで戦った」と語る。

■ 最高の戦闘損害比率

 日本軍の執拗な抵抗に、太平洋艦隊司令長官のニミッツ海軍大将は著書『太平洋海戦史』で、「ペリリューの複雑極まる防衛に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を出した」と述べている。

 守備部隊がいかに激しい戦闘を展開したかを物語るが、永井さんは、想像を絶する環境の中で気持ちを支えたのは「第2連隊で教育を受けたという誇りと、日本を守るという意地だった」と胸を張った。

 『昭和天皇発言記録集成』(防衛庁防衛研究所戦史部監修)によると、昭和天皇は『水際ニ叩キツケ得サリシハ遺憾ナリシモ順調ニテ結構テアル。「ペリリュ」モ不相変ラスヨクヤッテヰルネ』(10月23日)『「ペリリュー」補給困難ニナリ軍ハアマリ長ク抵抗ガ…。随分永イ間克ク健闘シ続ケテ呉レタ』(11月15日)-と述べるなど島の戦況を気に掛け、守備部隊の敢闘に11回、御嘉賞(お褒め)の言葉を送っている。

■ 誇りをかけた戦い

 平成8年6月17日、靖国神社で開かれたシンポジウム「ペリリュー戦 日米両軍の勇戦を讃える会」に、ペリリュー戦に参戦した元米軍のエド・アンダウッド元大佐とコードリン・ワグナー氏の姿があった。

 『昭和の戦争記念館 第3巻 大東亜戦争の秘話』(展転社刊)によると、アンダウッド氏は「日本軍は負けると判っている戦争を最後まで戦った。この忠誠心は天皇の力と知って、ペリリュー島を“天皇の島”と名付けた」と述べ、ワグナー氏も「日本軍人の忠誠心に最高の敬意を表す」と語っている。

 これら2人の言葉を裏付けるように、米第81歩兵師団長のミュウラー少将は、日本軍の抵抗が終わった昭和19年11月27日、「いまやペリリューは、天皇の島から我々の島に移った」と宣言したという。

 米軍に「天皇の島」と言わしめたペリリューでの戦闘は、日本軍将兵が日本と日本人の誇りをかけた象徴的な戦いでもあった。

http://www.sankei.com/premium/news/150102/prm1501020030-n1.html

《【天皇の島から 戦後70年・序章(1)後半】
時を超え眠り続ける「誇り」 集団疎開させ、島民を守った日本兵》

 ペリリュー島は「忘れられた島」とも呼ばれてきた。多大な損害を受けた米軍が口をつぐみ、日本側も生還者が少なく、証言に限りがあったからだ。だが、島民たちは、70年前に起きたことを忘れてはいなかった。

 平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。

 「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。だから島民に死傷者は出なかった。日本軍への感謝は何年たっても忘れない」

■ 残留要望を認めず

 昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。だが、守備部隊はそれを認めず、非戦闘員の島民を戦闘に巻き込まないため、19年3月から8月にかけて、全員をパラオ本島などに疎開させた。

 当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。

 「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。家族で日本軍に感謝した」

 ペリリューに一つの逸話が伝わっているという。

 〈ある島民が一緒に戦いたいと申し出ると、守備部隊の中川州男(くにお)隊長に「帝国軍人が貴様らと一緒に戦えるか」と拒否された。日本人は仲間だと思っていた島民は、裏切られたと思い、悔し涙を流した。しかし、船が島を離れる瞬間、日本兵が全員、浜に走り出て、一緒に歌った歌を歌いながら手を振って島民を見送った。その瞬間、この島民は、あの言葉は島民を救うためのものだった-と悟った〉

 逸話の真偽は分からない。だが、ニルゲサンさんは「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」といい、ウエキさんも「逸話は今でも語り継がれている」と話す。生還者の永井敬司さん(93)がいう「日本人の誇り」は、島民疎開という形でも発揮されたのかもしれない。

■ 「島が兵士のお墓」

 1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻る。

 島民が日本兵の被害状況を知るのは、昭和40年代に入ってからだ。日本人を父親に持ち、クルールクルベッド集落で民宿を経営するマユミ・シノズカさん(77)は「日本の兵隊さんが何人亡くなったかを知ったのは、日本から慰霊団が来るようになってから」という。シノズカさんはこの頃から、弟のウィリー・ウィラードさん(53)らと50年近くにわたり、慰霊団の食事の世話や島の中央部に立つ日本兵の墓地「みたま」の清掃などを続けている。遺骨収容に参加したこともある。

 シノズカさんは言う。

 「ペリリューそのものが日本兵のお墓。ご遺族に代わり、遠く離れた島に眠っている日本兵の冥福を祈る気持ちです。島に眠る日本兵は私たちが守ります」

 アントニア・ウエンティさん(85)も遺骨収容に関わった一人だ。戦後、ペリリューに移り住んだ彼女は島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたという。ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養した。軍医の妻には「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。

 ウエンティさんは「緑の島のお墓」という日本語の歌を作っている。

 〈遠い故郷から はるばると/お墓を参りに ありがとう/みどりのお墓の お守りは/ペ島にまかせよ/いつまでも〉〈海の中にも 山の中/ジャングルの中にも 土の中/英霊よ よろこべ 安らかに/一緒に暮らそよ とこしえに〉

 〈ペ島の願いは 唯1つ/日本とペリリューは 親善の友/かよわい力 よく合わせ/知らせておくれよ 祖国まで〉〈伝えておくれよ 祖国まで/父母兄弟 妻や子に/僕らはみどりの 島暮らし/涙をおさえて さようなら/涙をおさえて さようなら〉

■ 遺骨収容し慰霊

 「大山」と呼ばれる山の中腹にペリリュー神社が鎮座する。昭和57年、島民が見守る中、再建された。由来記によると、祭神は天照大神と戦死した日本軍守備部隊の一万余人の英霊。「護国の英霊に対し、心からなる感謝と慰霊鎮魂の誠を捧げましょう」とあり、島民が草むしりや掃除を続けているという。

 日本兵の慰霊にこだわるのは、シノズカさんやウエンティさんだけではない。ウエキさんは「多くの島民が慰霊碑の建設や遺骨収容などに協力している」という。これほどまで日本兵の慰霊にこだわるのはなぜか。

 ペリリュー州のシュムール州知事の母親、メンロムス・エテペキさん(89)は「なぜ、日本軍と米軍が自分の島で戦ったのか、という憤りはあった」と、一瞬、表情をこわばらせたが、すぐに「今は悪感情はない」と、笑顔で続けた。

 彼女は、自分の名前をカタカナで書きながらこう話した。

 「31年にわたる統治時代を通し、日本に対して特別な感情が育まれていた。日本への思いは深い」

http://www.sankei.com/premium/news/150102/prm1501020029-n1.html

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 パラオ共和国 赤道に近い太平洋上に位置し、大小500以上の島を抱える。総面積は488平方キロ。1920年(大正9年)、第1次世界大戦後に日本の委任統治下に。先の戦争後、米国の統治下に入ったが、94年(平成6年)に共和国として独立。10島に人が住み、人口は約2万920人(外務省ホームページから)。委任統治時代、日本はパラオに南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁を設置。パラオには学校や病院、気象台、郵便局などが建設されたほか道路などインフラも整備された。最盛期の43年(昭和18年)には2万7444人の日本人が住んでいた。

 ぺリリュー島の戦い パラオ群島にある南北約9キロ、東西約3キロ、面積約13平方キロのサンゴ礁の島。先の戦争では、マリアナ・パラオ諸島の戦いの中心地となり、昭和19年9月15日から74日間にわたり、日本軍守備隊と米軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室著)によると、戦闘は、日本軍9838人に対して米軍は約4万2千人で始まり、日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕。米軍も1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出した。日本軍は34人が生還した。

写真上左:パラオ共和国のウルクタープル島沖に沈む、“零戦”として知られる零式艦上戦闘機。台風や潮の影響で、年々その姿を変えている=12月14日、パラオ共和国・ウルクタープル島沖(写真報道局 松本健吾)
写真上中:ペリリュー島にある戦没者慰霊碑「みたま」=12月10日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)
写真下左:ペリリュー島に残る、旧日本軍が使用していた隣のゲドブス島との間に架けられていた桟橋跡。夕暮れに橋脚のシルエットが浮かび上がった=12月12日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)
写真下右:ペリリュー島に住むマユミ・シノズカさん(左)とウィリーさん=12月12日、パラオ共和国(松本健吾撮影)