「樺太残留韓国人問題」に多大な功績を残した朴魯学(パク・ノハク)氏。炭鉱の求人募集に応じて自ら樺太に渡る。仕事は厳しかったが、朝鮮の3倍近い高給、朝鮮に家を建てられる仕送りもできた。
炭鉱近くには炭鉱夫相手の「慰安所」が必ずあり、「日本人向け」と「朝鮮人向け」に分かれていた。朝鮮人向けの慰安所は朝鮮人の業者が経営し、朝鮮人の酌婦(慰安婦)を置くのが常だった。
樺太残留韓国人が、自虐的な日本人と追随した韓国人らによって政治問題化したとき、突然、「日本に強制連行され、戦後、朝鮮人だけ置き去りにされた」「炭鉱のタコ部屋で半殺しの目にあった」などと、明らかなウソを主張し始めた樺太の朝鮮人も多い。
朴氏は「そうじゃなかっただろう。オレたちは自ら樺太へ渡ったんだ。ウソはいけない」と懇々と諭していた。
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《記録に残る樺太の「朝鮮人経営の慰安所」》
産経新聞連載小説「アキとカズ」のモデルの1人で、「サハリン(樺太)残留韓国人問題」に多大な功績を残した朴魯学(パク・ノハク)さんは、1988年に亡くなったが、戦争中から戦後にかけての詳細な日誌を残していた。
昭和18(1943)年、日本統治下の朝鮮から、炭鉱の求人募集に応じて(断じて強制連行ではない)自ら樺太に渡った朴さんは、寄宿寮で生活しながら、樺太の炭鉱で働き始める。日誌によれば、炭鉱夫の仕事はとても厳しかったが、朝鮮での仕事の3倍近い高給をもらい、家族が朝鮮に家を建てられるぐらいの仕送りもできたという。
朴さんは当時、樺太にあった「慰安所」についても詳しい記録を残している。それぞれの炭鉱近くには炭鉱夫相手の慰安所が必ずあり、「日本人向け」と「朝鮮人向け」に分かれていた。朝鮮人向けの慰安所は朝鮮人の業者が経営し、朝鮮人の酌婦(慰安婦)を置くのが常だった。
それは、やはり「同胞の男は同胞の女を求めたから」にほかならない。
面白いのは、樺太の酌婦を朴さんが「娘子軍(じょうしぐん)」と呼んでいることだ。娘子軍とは主に、日本から東南アジア、インド、アフリカまで出ていった「からゆきさん(外国人相手の慰安婦)」のことを指すが、樺太でもそう呼ばれていたらしい。
当時の炭鉱業界団体の記録によれば、炭鉱近くにあった朝鮮人の慰安所は朝鮮人炭鉱夫向けの「娯楽」施設のひとつとしてとらえられていた。そこは「朝鮮料理屋」と呼ばれており、通常4、5人の朝鮮人酌婦を置いていた。公娼制度があった時代であり、もちろん合法である。
戦後、樺太ではソ連軍政下で、こうした慰安所や酌婦は表向き、一掃されたが、ソ連が日本人も、朝鮮人も帰ることを認めなかったため、一部でこうした「商売」もひそかに続けられたという。
後になって、「サハリン残留韓国人問題」が、自虐的な日本人とそれに追随した韓国人らによって、政治問題化したとき、突然、「日本に強制連行され、戦後、朝鮮人だけ置き去りにされた」「炭鉱のタコ部屋で半殺しの目にあった」などと、明らかなウソを主張し始めた樺太の朝鮮人も多い。これに対し、朴さんは「そうじゃなかっただろう。オレたちは自ら樺太へ渡ったんだ。ウソはいけない」と懇々と諭していた。
当時の朝鮮は貧しかった。仕事もない。だが、樺太に渡れば、仕事はきついが、高給をもらえる。家族のために、一身をなげうって働こう-。それが朴さんや朝鮮人慰安婦たちの紛れもない「真実」であったろう。
(「アキとカズ」作者、喜多由浩)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140706/art14070607000001-n1.htm