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2014/06/28 4:34
1954年6月、インドは中国と領土・主権の相互尊重、相互不可侵等を謳った《平和5原則》を共同声明。62年、中国軍8万が奇襲・侵攻し、印軍1万は戦死・行方不明3千、捕虜4千の大敗北。ネルーは1年半後の64年、首相在任中に失意のうちに死去。当時、インドは何を間違ったのでしょうか。以下、記事抜粋。 — 《ネルー印首相の命を縮めた中国「対話と協調」戦略》 ■ 「廉潔」こそが格好の標的 冒頭で触れたネルーは「対話と協調」で殺されたに等しい。ネルーを「高い理想」と「廉潔」の持ち主だと評する向きは少なくない。だが「高い理想」「廉潔」こそが、中国の格好の標的と成る。ネルーが心臓麻痺に至る道筋をたどる。 死への一里塚は1954年6月、ネルーと中国の周恩来首相(1898~1976年)との共同声明だった。声明は、2カ月前に締結された《インドとチベット間の印中通商・交通協定》の前文がベース。即ち(1)領土・主権の相互尊重(2)相互不可侵(3)相互内政不干渉(4)平等互恵(5)平和共存-をうたった《平和5原則》。 ネルーの狙いは、朝鮮戦争(1950~53年、休戦)の混乱に紛れチベット侵攻の残虐度を上げた中国との「対話と協調」にあった。大東亜戦争(41~45年)によりアジアから欧米列強を駆逐したにもかかわらず、チベット問題を契機に再び列強がアジアに介入する、冷戦のアジア飛び火を憂慮。5原則を軸に印中間での解決を目指したのだ。 ■ 想像上の環境に住む愚 ネルーは56年、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(78)を仏陀生誕2500年祭に招いた。反対する中国を、ダライ・ラマの「自由な訪印を喧伝すれば中国にも有益」と説得、招待を実現させた。ダライ・ラマはネルーや訪印した周と会談を重ね、インドへの亡命やチベット人大虐殺停止などを訴えた。周が善処を“確約”したことで、ネルーはダライ・ラマの亡命を拒み帰国を促した。 ところが、チベット人蜂起を受けた59年3月のダライ・ラマの印亡命→チベット臨時政府樹立を機に印中国境で9月、両軍が武力衝突。62年には中国軍8万が奇襲・侵攻し、印軍1万は戦死・行方不明3000/捕虜4000を出す大敗北を喫する。 ネルーの完全な読み誤りであった。実のところネルーは、印中国境線に関し、印政府に先手先手で画定を表明させ、その後に予想される中国側の非軍事=外交上の抗議に備えていた。平和5原則を最大限利用して、国境画定交渉の風上に立たんと欲したのだ。 甘い、と言わざるを得ない。そもそも印中は、中国軍がチベット中央部を侵攻した50年以降きな臭い関係が続く。ただ当時、中国は建国1年目で軍の創建期だった。従って、54年の平和5原則で時間を稼ぎ→59年の武力衝突でさらに牽制しながら軍事的な手応えをつかみ→優位を確信するや周到な準備を経て62年、本格的に侵攻した-のである。5原則を最大限利用したのは中国側で、しかも米国とソ連が核戦争手前まで至る《キューバ危機》に世界の耳目がくぎ付けの渦中での侵攻という、絶妙な時機が選ばれた。 ネルーはわずか1年半後の64年(首相在任中)失意のうちに亡くなる。社会主義的な計画経済の行き詰まりが死を早めた部分もあるが、ネルーは中国軍の奇襲直後にこう漏している。 《現代世界の現実に疎くなり始め、自分たちで勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいたことを思い知らされた》 反戦平和/平和憲法=第9条/集団的自衛権=戦争する権利…。日本が《勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいる》愚を《思い知らされる》のは、中国がわが国領土を占領して後のことになるのだろうか。 (政治部専門委員 野口裕之) http://sankei.jp.msn.com/world/news/140620/chn14062015300005-n1.htm
2014/06/28 2:53
おめでとうございます! — 《金賞に加瀬栞さん 米ジャクソン国際バレエ 若手の登竜門》 若手の登竜門として知られる米国のジャクソン国際バレエコンクールの主催団体は27日、日本の加瀬栞さん(22)=東京都出身=にシニア女性部門の金賞を授与すると発表した。宮崎たま子さん(25)=東京都出身=が同部門の銀賞を獲得した。 加瀬さんと宮崎さんは2006年に開かれた国際コンクール「ユース・アメリカ・グランプリ(YAGP)」で入賞している。 ローザンヌ国際、モスクワ国際などと並ぶ主要なバレエコンクールの一つ。4年に一度、米ミシシッピ州ジャクソンで開かれ、今年は14日に始まった。19~26歳までのシニア部門と15~18歳までのジュニア部門それぞれで3段階の選抜をした。最終段階に残った中から金、銀、銅賞が選ばれた。 前回の10年は、日本人がシニア部門で銀賞1人、銅賞2人、ジュニア部門で銀賞1人の計4人が入賞している。 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140628/ent14062801290003-n1.htm
2014/06/27 14:45
朝日新聞、また捏造と迷走。「聞き取り調査終了前に談話の原案が作成されていた」から「談話づくりに決定的な影響は与えなかった」ので、「産経は『河野談話の正当性は根底から崩れたといえる』としたが否定された」と。意味不明。検証で否定されたのは河野氏と朝日の捏造です。 — 《【歴史戦 番外編】河野談話検証は「産経報道を否定」 朝日新聞の「断定」に根拠が見えない》 平成5年の河野洋平官房長官談話の作成経緯に関し、政府の有識者チームによる検証結果が今月20日に公表されると、朝日新聞は翌21日付朝刊(東京本社14版)で産経新聞の慰安婦問題に関する報道が「否定された」と断じた。だが、有識者チームのメンバーの現代史家、秦郁彦氏は「それは直接関係ない話だ」と明言する。検証は産経記事を否定したといえるのか-。 記者の個人名ではなく、「河野談話取材班」と記されたくだんの朝日3面の記事「文書巡る調整・慰安婦証言調査せず 正当性損なわぬと結論」は、2カ所で産経記事を取り上げており、まずこう書いている。 「『すり合わせ』について産経は今年1月1日、今回公表されたものと同様の内容を報じた上で『韓国の指摘に沿って談話を修正していた。談話の欺瞞(ぎまん)性を露呈した』と報道。2月20日の衆院予算委員会に石原信雄氏が出席することにつながった」 これは特に問題はない。ポイントは政府が韓国で5年7月26日から30日まで実施した元慰安婦16人への聞き取り調査に関する部分だ。朝日は、「(検証は)加えて『聞き取り調査終了前に談話の原案が作成されていた』として、談話づくりに決定的な影響は与えなかった」と書いた上で、次のように指摘した。 「産経は昨年10月16日、16人の証言を報じ『氏名や生年すら不正確な例もあり、歴史資料として通用しない。河野談話の正当性は根底から崩れたといえる』としたが否定された」 朝日は何をもって「否定された」と断じたのだろうか。有識者チームの検証は、産経が報じた「氏名や年齢すら不正確」という事実を一切否定していないし、報告書も「事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった」と書いている。朝日の書きぶりは誤解を招かないか。 朝日は、聞き取り調査の前にすでに河野談話の原案ができていたことから、聞き取り調査内容がずさんであっても河野談話の正当性は損なわれないと言いたいようだが、そうだとしてもこの書き方は問題がある。 報告書は、聞き取り調査終了後の7月31日に韓国側から河野談話の文言に関する最初のコメントがあったことを指摘し、「文言の調整は、談話発表の前日となる8月3日までの間、集中的に実施」「『強制性』にかかる表現について、最後まで調整」とも記す。つまり、原案は聞き取り調査前にできていても、実際に表現や語句すり合わせが本格化したのは聞き取り調査のあとなのである。 第一、朝日自体が9年3月31日付朝刊1面の河野氏へのインタビューをもとにした記事「強制性の認定は正当 証言も重視し総合判断」で、こうはっきり書いているではないか。 「(河野氏は)募集の『強制性』については、日本政府が聞き取り調査した韓国人の元従軍慰安婦16人の証言が主な根拠になっていることを明らかにした」 産経の記事が否定されたと言いたいのなら、同時に「朝日の記事も否定された」または「河野氏の証言は間違いだった」と併記すべきだろう。 ちなみに河野氏は読売新聞の24年10月18日付朝刊記事でも、聞き取り調査について「『強制性』を認めるべき内容だと判断しました」と述べている。朝日は何が言いたかったのか。 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140627/plc14062711220009-n1.htm
2014/06/27 9:07
米WSJ紙が、完全な誤りに基づく「慰安婦」報道。「慰安婦は性奴隷」「大半は植民地だった朝鮮出身の女性。中国人も相当な数」「慰安婦は『摩耗』したり、病気になったり妊娠すると、即座に殺された」。明確に否定しなければなりません。否定を怠ってきたこれまでの日本政府の罪は重い。 — 《慰安婦問題、失われた正義―日本だけの問題ではない/WSJ》 第二次世界大戦終了の直後、敗北した日本政府にとって喫緊の課題は、国内の女性たちを連合国占領軍の何十万人もの米兵からどう守るかということだった。 解決策は「ianfu」(慰安婦)だった。 ボランティア(自由意思)による慰安婦が募集された。RAA(the Recreation and Amusement Association=特殊慰安施設協会)として知られる政府公認の一連の売春所で働く仕事だ。 何千人もの日本人女性が応募し、「広く社会のために」自らを犠牲にすると覚悟した。売春所は米兵たちの間で人気が沸騰。兵士たちの間で性病が広がり、数カ月後には閉鎖しなければならなくなった。 今では日本のボランティア女性たちの犠牲に言及されることはほとんどないが、そうした犠牲は戦時の慰安婦に関する考え方を体現していた。慰安婦とは、太平洋戦争中に日本軍が性奴隷を指す言葉として生み出した言葉だ。戦時中の慰安婦の大半は、当時日本の植民地だった朝鮮出身の女性だった。しかし中国人も相当な数がいた。 戦時中の女性の役割に対するこうした認識が、その後の米国主導の東京裁判が日本の最も極悪な一面を覆い隠した背景にあった、と主張する法律学者や女性権利擁護者もいる。東京裁判は性奴隷を戦争犯罪として認めることはなかった。 終戦から70年たった今、韓国や中国などで元慰安婦の生存者が少なくなっているが、彼女たちは今なお正義を待ち望んでいる。政治家たちが責任の所在という問題で言い争っている中で、正義を待ち望んでいるのだ。 安倍晋三首相は、アジア各地の元慰安婦に対する1993年の画期的な謝罪(河野洋平官房長官談話)を検証することで、この古傷を再び開いた。河野談話の謝罪は、「慰安所」の設置と慰安婦の募集で旧日本軍が果たした役割を認めたものだった。それは「心身にわたり癒やしがたい傷を負われた(犠牲者たち)」に対する自責の念を表明していた。 日本政府は先週、河野談話の謝罪の作成過程を検証した結果、日本と韓国の当局者が文言調整で秘密裏に交渉していたことが判明したと発表した。これは、河野談話で純粋な自責の念のようにみえたものが、実際には外交上の産物であったことを示唆したことになる。 安倍首相は、この謝罪を撤回するよう求めるナショナリスト(国粋主義)的な同志たちから圧力を受けているが、謝罪自体は撤回しないと述べている。しかし検証作業によって、ずっと責任回避的だった河野談話がさらにあいまいになった形だ。慰安婦を商業ベースの売春婦だったと表現し、日本は不当に非難されていると主張する右翼勢力は、今回の検証に勇気づけられている。 日本の検証に反対していた韓国政府は23日、日本の駐韓大使を呼び、検証結果公表に抗議した。また中国外務省の報道官は、日本が「侵略の罪を覆そうとしている」と非難した。 戦争終了後これほど多くの年月がたった今日、アジアの元慰安婦が今なお正義を求めているのに対し、政治家たちが技術的な詳細にこだわり続けるのは一体なぜなのだろうか。 確かに、性犯罪への日本軍の直接関与に関する証拠を入手するのは困難だ。中国の公文書専門家は、日本軍が撤退の際に記録や文書を徹底的に破棄していたと述べている。 慰安婦たちの一部は、自分たちの境遇を生前に一言も語ることがなかった。生存者たちによると、慰安婦はいったん「摩耗」したり、病気になったり妊娠すると、即座に殺され、時には銃剣で突き殺されたという。 「慰安所」をどのように説明すべきかの議論が続いている。慰安婦のための正義を求める人々は、それが村々から拉致された女性や少女のあふれるレイプセンターだったと表現する。だが、この説明は大きな違いを見落としている。1937年に日本軍によって陥落した上海など中国の主要都市では、軍の「慰安所」は、日本の民間人向けの売春宿システムの中に設置され、規制も厳しかった。女性たちの扱いは、戦争の前線に近い臨時施設の方が悪かったようだ。中国人のブローカーが主要な役割を果たし、侵攻してくる日本軍のために女性たちを調達していた。 このため日本の右翼勢力は、責任の所在が旧日本軍にあるとする画一的な議論を否定している。 中国政府にも見捨てられた元慰安婦 しかし、元慰安婦たちの消えない痛みの裏には、文化と政治に関する根深い問題が存在する。そうした問題は依然として完全に認知されているとは言えない。それは日本だけにとどまらない。 戦時の女性たちの苦悩は、戦後も続いた。彼女たちは、純潔を重んじる男性優位社会からしばしば締め出された。慰安婦として働いた結果不妊になった女性たちは、結婚相手として認められなかった。これは女性の価値に関する田舎の価値観を浮き彫りにしていた。多くの女性たちは旧日本軍の協力者だとのレッテルを貼られた。 最近出版された米バッサー大学の丘培培(Peipei Qiu)教授と中国在住の共著者2人(蘇智良氏と陳麗菲氏)の著書「Chinese Comfort Women(中国人慰安婦)」は、元慰安婦12人の痛ましい経験をつづり、この悲劇にあらためて光を当てている。 元慰安婦のうちの1人、Yuan Zhulinさんは、初めて慰安所で働いた日に頑強な日本兵10人からレイプされたことを明かし、「下半身をナイフで刻まれているように感じた」と説明している。武漢生まれの彼女は、逃げようとしたら殴打され、そのため頭痛に生涯悩まされることとなったという。彼女の苦難は、法的な迫害でさらに増幅された。1958年、中国の裁判所は日本人相手の売春婦だったとして彼女に「重労働」の刑を言い渡した。彼女はその後17年間、極寒の中国東北部に追いやられた。 またNan Erpuさんは1960年代の文化大革命の際、日本兵に性を提供した「守旧的な反革命主義者」という理由で投獄された。彼女は後に自殺した。 屈辱は最近まで続いた。Li Lianchunさんは2000年に元慰安婦に関する会合に参加するため東京を訪れようとしたが、中国の地元当局者に渡航書類の発行を拒否された。この当局者は、彼女が国外で「恥ずべき過去」を語ることが不適切だと考えたためだった。 これまで研究者たちは、アジア全域で最大20万人の慰安婦がいたとし、うち大半は朝鮮出身者だったと推定してきた。しかし丘教授らの著書によると、最近の中国の研究は、慰安婦の総数は40万人で、少なくともその半数が中国人だったと推定しているという。 中国人慰安婦たちの苦難の責任は、一義的に旧日本軍にあった。しかし女性たちの政府(中国政府)もまた、彼女たちを見捨てていたのである。 http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304057704579645890629397988
2014/06/27 8:05
中国が、米国を舞台に「慰安婦」戦を開始しました。「慰安婦の大半は20万人の朝鮮人と考えられてきたが、同数の中国人慰安婦が存在」「旧日本軍は占領地域から数多くの女性を誘拐し、軍の『慰安所』に収容。家族が拷問、殺害」。捏造の更なる拡大を進めています。 そもそも慰安婦の多くは日本人であり、軍ではなく民間業者が高給で募集。本人の誘拐や家族の拷問、殺害など有り得ませんでした。 — 《「中国人慰安婦」著者に聞く―共謀者扱いされた女性たち/WSJ》 日本政府が1993年の河野洋平官房長官談話を有識者に検証させたことで、旧日本軍が生んだ「慰安婦」という耐え難い問題にあらためて焦点が当たっている。 米バッサー大学アジア研究学部の丘培培(Qiu Peipei)教授は近著「Chinese Comfort Women(中国人慰安婦)」で、第二次世界大戦中の日本による侵略の中で最もトラウマに満ちた側面に新たな視点を提供した。この本の執筆には上海師範大学の蘇智良教授と陳麗菲教授も共著者として加わっている。 これまで研究者らは慰安婦の総数が最大で20万人に上り、大半が朝鮮人だったと見ていた。だが、丘教授の著書によるとアジア全体で40万人の慰安婦が存在し、少なくともその半数が中国人だった可能性があるという。 慰安婦問題はすでに日韓関係を深く傷つけているが、中国でこの野蛮な歴史の一幕に関する研究が進むにつれて中国政府が独自の主張を強める可能性がある。しかし丘教授の著書によると、中国の慰安婦は2度犠牲になることが多かったという。最初は日本軍の、戦後は中国共産党の官僚たちの犠牲になったというのだ。共産党は慰安婦に対し、日本の共謀者というレッテルを貼っていた。 ウォール・ストリート・ジャーナルは電子メールで丘教授に話を聞いた。 Q:慰安婦の大部分は朝鮮人だったと長く考えられてきた。教授の研究では同数の中国人慰安婦が存在した可能性が示唆されている。なぜ今になってこれが明るみに出たのか。 A:中国では戦後長い間、このことが表面化しなかった。レイプ被害者は恥ずべき存在と見られ、時には「敵国支援」の共謀者と見なされる場合があったからだ。旧日本軍が戦時中に設置した「慰安所」には膨大な数の中国人女性が収容されていたが、これに関する情報が最初に出たのは1990年代後半になってからだ。当時は韓国と日本で「慰安婦」への補償を求める運動が起こっており、中国でも旧日本軍の慰安所に対する調査が全国規模で広まった。ただ、この研究結果を英語で得られるようになったのは最近のことで、中国以外での認知度は低かった。私はこうした情報格差を埋めることで、この問題についての理解を一段と深めることに寄与したいと思う。 Q:生存している元中国人慰安婦は何人いるのか。 A:これまで証言を行った女性の中で、生きているのは23人しかいない。今は全員が80代か90代だ。 Q:中国人の慰安婦は特にひどい仕打ちを受けていたのか。当時の日本にとって中国は敵国で、朝鮮は植民地だった。 A:旧日本軍の「慰安婦」制度でどの民族集団がひどい仕打ちを受けたかを比べるのはやめよう。民族にかかわらず、全ての犠牲者が「慰安婦」制度で恐ろしい虐待を受けたという点を私は強調したい。それと同時に、歴史と未来のために、旧日本軍が敵国の女性や市民を言葉にならないほど残忍に扱ったという点を指摘することも重要だ。旧日本軍は占領地域から数多くの女性を誘拐し、軍の「慰安所」に収容した。誘拐された女性の家族が拷問されたり殺害されたりする場合もしばしばあった。 Q:戦後、中国人慰安婦の多くが共謀者という汚名を着せられ、虐げられた。現在、こうした女性に対する中国政府の公式見解はどのようなものか。 A:アジア各国で「慰安婦」への補償を求める運動が起きて以来、中国政府は日本が戦争犯罪の責任を回避してきたと公に非難してきた。中国側の主張は、(国交が正常化した)1972年の日中共同声明で日本政府への賠償請求権を破棄したのは中国政府のみで、市民が個人で補償を求めることを中国政府は禁止しないというものだ。 だが、中国政府は個々の犠牲者に実質的な支援を与えることはなかった。あったとしても、通常の社会福祉政策の一環として、一部の生存者が地方政府から限定的な財政援助を受ける程度だった。草の根レベルでは、特定された「慰安所」に収容されていた生存者が地元住民から手厚い支援を受けたほか、個人から集まった寄付金は中国「慰安婦」問題研究センターを通じて少額ながらも毎月犠牲者に支払われた。 Q:「慰安所」の実態については、いくつかの議論がある。少なくとも従来は、一部は普通の売春宿に似たものだったとされている。教授の著作ではこの違いが描写されていないが、なぜか。 A:中国人「慰安婦」の証言から明らかになった「慰安所」制度の隠された一面とは、旧日本軍の大部隊や売春宿経営者らによって設立された公式の「慰安所」に加え、小部隊が即席でこしらえた「慰安施設」が非常に多く存在したことだ。小隊や分隊でさえ、性の奴隷として女性を監禁することが多かった。戦時中を通じ、当座しのぎとも言えるこうした施設が正式に認可された軍慰安所と併存し、極端に野蛮な行為や殺害が行われていた。中国人「慰安婦」の大部分はこの簡易「慰安施設」に入れられたため、中国人生存者の証言は自然と現実を映し出している。 中国人「慰安婦」の経験を客観的に捉えるため、私たちはさまざまな「慰安所」に収容された生存者から証言を集める努力をした。例えば、本に登場する雷桂英さんは海外に住む日本人夫婦が経営する「慰安所」に閉じ込められた。民間人が経営する売春宿だが、雷さんが受けた仕打ちは犯罪的な暴力に等しかった。抵抗する雷さんに対し、日本兵は暴行をふるったうえ銃剣で刺し、片足の不具合は今でも残っている。 Q:中国での慰安婦制度は女性を集める中国人仲介者に依存していた。法の裁きを受けた者はいるのか? A:地元民と占領者との共謀の仕方は状況によって異なる。旧日本軍と積極的に共謀して慰安所を設置し、その経営に参加した者もいる。一方、女性を集めるのを拒めば占領軍が住民を殺すと公に脅していたため、そうせざるを得なかった地方公務員もいる。こうした仲介者の行動は、占領軍からの圧力が原因だったとして完全に正当化することはできない。ただ、旧日本軍が占領地で広範な殺りく行為を犯していたことを考えると、占領者の命令を断れば多くの地元民の安全が危険にさらされたのは明らかだった。 私は著書の中でさまざまな共謀について議論している。その一つがQiao Hongnian氏のケースで、同氏は南京で女性に売春を強要して旧日本軍を積極的に支援していた。Qiao氏は戦後、中国の法廷で裁判にかけられた。 Q:中国では国粋主義的な感情が強すぎるため、日本の侵略に関する研究の独自性を疑う声がある。これについてどう思うか。 A:戦時中の日本の「慰安所」に関する研究は、中国では草の根活動に端を発している。私が共同作業をしてきた研究者たちは、長らく金銭的支援を受けたことがなく、調査を続けるために貯金を崩さざるを得なかったという。本の執筆中に意見を聞いた中国と日本の研究者および専門家は、全員が「基本的人権」と「本当の意味での人々の和解」に対する深い憂慮からこの研究テーマに身をささげている。 私もこうした憂慮から本を書いた。この本を出すことで、こうした女性の苦しみに対する理解が世界的に広まることを希望する。「慰安婦」に起こったことを理解するために、私たちは国民国家という境界を乗り越える必要がある。「慰安婦」の悲劇に立ち向かうことは政治や国益のためではなく、人間のためだということを私は示したい。 http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304057704579647283156181394