「偽」東京裁判を強行した連合国が出鱈目であったのと同様、朝日新聞、東京日々新聞、京都新聞といった新聞、森村誠一をはじめとする作家の、戦前・戦後を通じた捏造作文も出鱈目でした。以下、記事。
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《「南京大虐殺はなかった」を読む③》
平井 修一
■虐殺論者とそのウソ(1)
日本人で「虐殺はあった」と主張する人を一応「虐殺論者」と呼ぶ事に致しますが、この中には新聞記者、学者、評論家という人達、それともう一つは戦争に行った兵隊、下士官、将校がおります。
そういう人達の虐殺論がいかにウソでありデタラメであるかをこれからご説明します。
(1)まず、当時の従軍記者の例をあげます。当時南京には、新聞各社の記者が100名以上もおりました。
イ)朝日新聞の今井正剛記者という記者が「南京城内の大量殺人」という本を書いております。大阪毎日(当時)の後藤記者が、
「あなたはとんでもない事を書いていますね」とただしたところ、今井記者は「あれは興味本位で書いたのだ」と白状しています。朝日の同僚の記者は、「今井君は危険な前線に出て、目で見てものを書く人ではなく、後方で人の話を聞いて記事を書くのが上手であった」と批判をしております。
ロ)東京日々新聞の鈴木二郎という記者は「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言しております。
作家の阿羅健一氏が「あなは12月12日に中山門に入られたのですか。それは13日の間違いではありませんか」と問い正したのにも拘わらず、「いや、私は12日に入って、現実に捕虜が殺されるのを見たんだ」と譲らない
のです。
12月12日には、私は先ほどお話したように、中山門正面約2キロ手前の溝山の山頂にいました。双眼鏡で中山門の城壁がやっと見えたのですが、敵兵がいっぱいおりました。
一体いつになったらあれを占領できるのかと、その時思ったことを私ははっきり覚えています。
そんな時期に、一新聞記者がどうして中山門に入るのでしょうか。中山門の高さは約10メートル、厚さ20センチの扉はったり閉まっており、しかも門の内側には土嚢(どのう)がいっぱい積み上げられてありました。
13日の未明、我が歩兵20連隊が砲撃によって崩れた城壁をよじ登って占領し、私は15日に中山門に入ったのですが、ここで捕虜が虐殺されたような形跡は全くありませんでした。
要するに、鈴木二郎という記者の証言は、全くのウソであります。
ハ)東京日々新聞の浅海一男という記者が「百人斬り」という記事を書いています。
京都の9連隊の野田、向井の2人の少尉が、上官から「どちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、勝者に賞を与えよう」と命じられ、2人が百人斬りを競ったというものでありますが、これが全くのウソであります。
第一に、軍隊で戦争の真っ最中に、上官が将校にかかる競争を命じ、勝った方に賞をやろうなどと言うこと、また将校もそんなエサで釣られるようなことは、軍隊の常識としてあり得ません。
その時の上官であると言われている富山大隊長も「そんな馬鹿なことがあるものか」と、ハッキリ否定しておられます。
さらに野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。そういう将校に、敵に突入して百人斬りを命ずる馬鹿がいるでしょうか?
そういう作り話がまことしやかに書かれ、そのために両少尉は戦犯にされ、処刑されたのです。
東京裁判の最中に、向井少尉の家族が、浅海記者にあの記事はウソである、作り話であるということを証言して欲しいと懇願していますが、浅海記者は逃げ回ってその証言を回避しております。
私は、彼が2人の若い将校を殺したのも同然だと考えております。
(2)次に、戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。
まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨している例もあります。
また、証言者が「中隊の軍紀は非常に厳正でありました」などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮で買ったものであると、読者が抗議しています。
また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
そのような記事について「そんなことはあり得ないことである」と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段なのです。
都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件(平井:後日詳報)、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。全く礼儀知らずと言うほかありません