私は経団連職員時代、ブラジルとの経済交流にも3年間携わり、ブラジルの人達の日本人・日系人に寄せる信頼の深さ、高さを肌で感じました。我が国の先達が信頼を築き上げた大切な友邦です。
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《【リオ五輪異聞】「ジャポネス・ガランチード」=日本人は信用できる 日系移民の労苦が勝ち取った信用力を生かせ!》
2016.01.31 産経新聞
「ジャポネス・ガランチード」-。そんな言い回しを知る日本人は、なかなかのブラジル通である。今夏、リオデジャネイロ五輪が開催されるブラジルで日本人(日系人)はそう呼ばれ、尊敬の念をもって迎えられてきた。直訳すると「信用できる日本人」。日本人がブラジルで絶対的な信頼を勝ち得たのは海を渡った日系人の資質ゆえ、具体的には仕事に勤勉かつ高いモラルと教育熱心だったからだ。リオ五輪はわれわれの祖先と縁の深い「第2の故郷」で開催される祭典である。日本選手のメダルラッシュの“追い風”になることを期待したい。
■ 移民の苦闘の100年史
日本からブラジルに初めて移民が渡ったのは1908(明治41)年。神戸港を出港した第1回移民船「笠戸丸」が800人近い日本人を乗せてサントス港に到着。期待と不安が交錯する中、地球の裏側のブラジルの地で生計を探ったのが集団移住の始まりだ。
異国での暮らしは決して順風満帆だったわけではない。言葉や文化の違う中で移民たちは苦難や差別を乗り越え、ブラジルのコミュニティーに溶け込もうとした。激動の歴史をへて、移民70年祭でガイゼル大統領(当時)に「日系人はブラジル国民の重要な一部である」と言わしめるほどの「信頼」を勝ち取り、2008年には記念すべき移民100周年を迎えた。「ジャポネス・ガランチード」とは、我慢強く大地を耕し、ブラジル社会に同化してきた日本人を象徴する言葉である。
とはいえ、同じ日系移民でも“一枚岩”だったわけではない。例えば、終戦を迎えたブラジルで、日系人が「勝ち組」と「負け組」に分かれて両者が対立したことは移民史における最大の悲劇でもある。祖国が戦争に負けたことをデマとして信用しない「勝ち組」は、敗戦の現実を素直に受け入れようとした「負け組」を批判し、ときに流血の騒ぎになることもあったという。
■ 「抗争」が解消した歴史的瞬間
史上最強の柔道家と呼ばれた木村政彦は両者の抗争の冷めやらぬ1951年、ブラジル遠征を敢行。ブラジル最大のスタジアム「マラカナンスタジアム」で、木村が現地の英雄、エリオ・グレーシーを寄せ付けずに勝利したことで両者の対立は解消し、日系人たちは一体となって熱狂した。「地元ブラジル紙も邦字紙も試合前から一面トップで大きく煽っていた。その扱いは、初めてブラジルで開催された前年の第4回W杯サッカー並みである」(増田俊也著『なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか』新潮社)
日伯関係は、ブラジリアン柔術やサッカー、コーヒーなどスポーツや文化においても絆を深めてきた。戦前、戦後を通じてブラジルに渡った移民は農園や料理店、ホテル経営に乗り出し、政財界にも進出した。勤勉さや行儀のよさで現地の人々から一目置かれる存在になった。約150万人に及ぶ日系人は、ブラジル全体の1%近くを占める。日系人が最も多い商業都市、サンパウロでは邦字新聞が発行され、日本食レストランにまず困らない。また、47都道府県の「県人会」が存在するほど、日系社会が根を下ろしている。
■ 日本人の「勤勉さ」を表すジョーク
終戦を迎えたブラジルで、敗戦国となったイタリア、ドイツ、日本の移民たちが当時、どんな行動をとったのか-。ブラジル人は冗談交じりに国民性の違いを口にする。「イタリア人は『戦争が終わった』とお祭り騒ぎをした。ドイツ人は店を閉めて『祖国が負けた』と悲しんだ。一方、日本人は泣きながら働いていた」。現地紙「パウリスタ」で勤務した経験のあるノンフィクション作家、高橋幸春氏は日系人の勤勉な性格を示すエピソードを著書『日系人の歴史を知ろう』(岩波ジュニア新書)で紹介する。
「日本人なら信用できる」-。信頼と尊敬にかたどられた日系人の「明治人魂」が息づくリオ五輪は、過去の夏季五輪とは意味合いが異なる。両国の長い交流を支えてきた日系人は、65年前に木村のリングに熱狂と興奮を抑えきれなかったように、リオ五輪での日本選手の奮闘とセンターポールにたなびく「日の丸」に涙するであろう。
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