01/11/2016 10:31:10 AM

当の中国側が「南京大虐殺」を信じていない。説明できない。しかし宣伝を拡大していく。それを止めない、抗議しない、制裁しない、ODAを出す、企業に投資を促す日本の歴代政権と与野党の政治家、官僚が「嘘」を「真実」に換える工作に加担してきました。

歴史を知ろうとせず致命的に国を損ない続ける政治家から、真実を把握し、それに基づいて外交政策を行う政治家に換える必要があるのです。

《習近平も信じない「大虐殺」を許した外務省の大罪》
2015.12 月刊正論 阿羅健一(近現代史研究家)

 とうとう南京事件がユネスコの世界記憶遺産に登録された。ユネスコにはよく知られている世界遺産のほかに世界記憶遺産がある。世界記憶遺産にはイギリスのマグナカルタ(大憲章)、フランスの人権宣言、日本の御堂関白記などが登録されている。今回の登録で南京事件はそれらと同じように歴史的事実となり、事件に関する文書は保存すべき貴重なもの、と認められてしまったのである。

 南京事件とはなにか。戦時宣伝であり、架空の出来事である。記憶遺産に登録されたことで日本人は数十万の南京市民を殺した残虐民族、という烙印が押されたことになる。次の世代に日本が残虐民族だと負い目を背負わせてしまったのだ。

■ 阻止への動きが鈍かった日本政府

 何故こんなことになったのか。まず中国の国際政治力だ。しかし申請以降の日本政府の態度にも問題があった。

 中国がユネスコに申請したと判明した昨年六月、菅義偉官房長官は抗議する一方、「日中間の過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」と事件を認めている。外務省の動きも皆目わからない。彼らは「旧日本軍が南京に入った際に、非戦闘員の殺害や掠奪などがあったことは否定できない事実」とたびたび述べてきた。外務省が所管した5年前の日中共同歴史研究でも「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」と認めていた。書店に並ぶ南京事件に関する著作は半分以上が事件を架空なものと見なしているのに、こうした研究は全く無視された。中国が30万以上の虐殺を主張し、日本も規模はともかく事件そのものを認めているのだから、申請が認められるのは自然の流れだった。

■ 中国の資料は反論が可能なシロモノ

 しかし、そうだとしても阻止できなくはなかった。というのは、事件は架空なので登録すべき史料がないのだ。申請するに当たって当初中国が提出した資料は、マギーフィルム、程瑞芳日記、谷寿夫中将の裁判記録というようなものであった。史料という点からいえば、マギーフィルムと程瑞芳日記が当たるかもしれない。

 マギーフィルムは、当時南京にいたマギー牧師が撮影したもので、病室の負傷者や民家が写っている。昭和十三年五月のアメリカの写真週刊誌「ライフ」にも紹介されたが、写っているのは数人の負傷者で、それらもほかの写真も戦場の写真としてはありふれ、大虐殺を写したものでもなければ、髣髴させるものでもない。政治ショーのような東京裁判でも証拠として提出されなかった。

 程瑞芳日記は、金陵女子文理学院の舎監であった程瑞芳の十二月の日記を指し、難民収容所になった金陵女子文理学院の様子が記録されている。それによると殺戮を暗示するような噂話が記載されているものの、程自身の見た殺人は一件もない。強姦と掠奪が九件起きたと記述されているだけである。二十万の虐殺があったとしたなら、収容人数の比率からいって金陵女子文理学院では一万人ほどの殺害があってよいはずである。強姦にしても二万件の強姦があったとの判決であるから、若い女性を中心に収容した金陵女子文理学院では数千件の強姦があって当然である。翌年一月四日の「ニューヨーク・タイムズ」は、金陵女子文理学院で中国軍大佐をトップとした中国人の一団が日本軍の仕業に見せかけて強姦をしていたと報道しており、程が挙げた強姦にしても日本軍によるものかどうか。強姦と同数起きたとされた掠奪は食料の鶏やお金といったものである。

 このように、ふたつは事件の史料とはなっていない。むしろ南京が通常の戦場であることの証拠である。

 また、谷寿夫中将は戦後南京に連行され、昭和二十二年に銃殺刑に処せられているが、谷中将率いる第六師団が城内に入ったのは数百メートルまでで、数日すると主力は蕪湖方面に転進していった。谷中将も入城式に参加するため一週間ほど南京にとどまっただけである。南京事件は翌年まで続いていたと判決はいっているが、その責任を谷中将に問い、裁判で日本の弁護士がついたのでもなかった。谷中将の反駁書によれば、南京事件というものを知ったのは戦後にアメリカ軍が発表した「太平洋戦争史」によってである。そういう戦争裁判の記録にすぎない。

 今回の世界記憶遺産への申請は九十六件あったという。今年初夏、審査小委員会で事前審査がなされ、そのうちの五から七件に問題があると判断され、追加資料の提出が求められた。南京事件もその一つであった。

 こういったことを踏まえればいくらでも反論できたはずである。

■ 一目瞭然だった働きかけの違い

 今年、日本の民間団体がパリのユネスコ本部と接触を取りはじめ、ユネスコの日本政府代表部とも会った。「幸福の科学」は早くからユネスコ本部に行き、中国がどのような資料を提出しているか調べ、詳細な反論書を提出している。さらに、中国が政治的な立場から申請していることを訴え、都合四回もユネスコ本部に赴いた。「『南京の真実』国民運動」や「なでしこアクション」は、やはりユネスコ本部に赴き、十四名の専門委員にそれぞれ英文の反論書を提出し、反対署名も添えた。しかし民間では限界がある。

 一方、中国はどうか。十年ほど前、中国は南京虐殺記念館を世界文化遺産にと言いだし、条件をクリアするため記念館を三倍に拡張したことがあった。このときは認められなかったが、昨年、十二月十三日を国家記念日に格上げし、あらためて力を入れていることが明らかになった。

 ユネスコが申請を認めるかどうかは、登録小委員会が史料を検討してある程度の評価をし、十四人からなる国際諮問委員会に送る。国際諮問委員会が最終審議を行い、決定はユネスコ事務局長に委ねられる。

 昨年三月、習近平主席はイリナ・ボコバ事務局長に会っている。四月、ドイツを訪れた習近平は講演を行い三十万虐殺に言及した。世界記憶遺産にはすでにアンネの日記が登録されており、ドイツで言及したというのは、南京事件をホロコーストと並べる意図があったからだろう。同じ四月、デンマーク女王を南京虐殺記念館に案内している。登録することによって、日本に対する外交武器として強めようとしていたのがはっきり見てとれていた。このように、日中の取り組み方には格段の違いがある。

■ まともに説明できる中国人はいない

 では習近平が南京事件を信じているかといえば、そうではない。習近平は、中学校でも、清華大学でも、南京事件を学んだことがない。中国が教科書に載せるのは昭和五十六年、習近平が二十八歳になった時だ。二十八歳のとき突然教科書に現れた南京事件を信じてはいまい。

 習近平がなかったと考える理由の第二は、共産党員が学ばなければならない党史、たとえば胡喬木の「中国共産党の三十年」は事件を記述していない。党史にないことを習近平は事実と見なすか。第三は、中国の高官たちが事件をなかったと見なしてきたことだ。習近平だけがあったと見なすことは考えられない。

 中国高官たちが南京事件をなかったとする例を挙げる。突然南京事件を言いだしたことへの気持ちを初めて中国高官へぶつけたのは、私が知るかぎり三岡徤次郎である。

 三岡徤次郎は昭和九年に陸軍士官学校を卒業、戦争中は大本営で船舶課参謀を務めた。戦後自衛隊に入り、アメリカ陸軍参謀大学で学び、第九師団長を務め、昭和四十四年陸将で退官している。三岡が中国と関わりを持ったのはそれから八年経った五十二年に中国を訪れたときである。十月七日、鄧小平副総理と会い、一時間余り忌憚なく意見を述べあう。

 それをきっかけに、退役自衛官を集めて中国政経懇談会を設立し、会長に就く。引きつづき中国を訪れ、徐向前、王震、張愛萍といった副総理とも会談する。中日友好協会の会長を務めていた孫平化によれば、三岡の設立した中国政経懇談会は遠藤三郎の日中友好元軍人の会と並んで日中友好のため大いに貢献している軍人の集まりだという。

 三岡が初めて中国を訪れたとき、中国で南京事件は語られてなかった。鄧小平と会談したとき、鄧小平はこう述べた。「日本の軍国主義は中国を侵略した。そのため蒋介石は後退し、それにより八路軍は勢力を広げることができ、最後は蒋介石を打ち破ることができた」

 鄧小平は日本軍を非難するとともに日本軍に感謝もしていたが、南京事件を語ることはなかった。三岡は黙って聞いていた。四年後、中国は教科書に南京事件を記述し、さらに四年後、南京市に虐殺記念館を建てる。記念館が建立された翌年、さっそく三岡も案内される。

 三岡は士官学校卒業とともに兵隊の教育に従事したが、その兵隊と南京戦に従軍した兵隊は同じ年齢である。日本兵の素質を知っていた三岡は、かりに南京で不祥事があっても、事件として指摘されるようなことは起きえない、ととらえていた。

 三岡は鄧小平との会談で臆せず意見を述べたが、礼を失することのないよう努めた。ほかの高官との会談でもそう務めてきたが、こうなっては中国に問いたださないわけにいかない。六十一年九月、党政治局員兼書記の余秋里と会談したとき、南京事件を持ちだした。

 余秋里は、毛沢東の腹心として知られており、文化大革命のころは石油鉱業相を務めていた。会談の四年前に当たる五十七年の第十二回党大会で政治局員に選ばれ、その翌年に国家中央軍事委員会副主席となり、会談が持たれたときは軍のなかできわめて重要な地位にいた。

 三岡は余秋里にこう尋ねた。

「二十万人しかいない南京で三十万虐殺があったと中国は主張しているが、話が合わないではないか」

 それに対して余秋里はまともに答えず、「揚子江寄りの下関で二万人を殺したと日本から言ってきている」とはぐらかした。そこで三岡は戦場というものに言及し、「二万人の死体がどれくらいか、軍人なら君もわかるだろう」とたたみかけた。すると、余秋里はそこで話を切りあげてしまう。逃げるだけであった。

 三岡は納得できなかったが、相手の立場も考えなければならない。切りあげざるをえなかった。といって三岡の追及が終わったわけでない。平成三年九月、中央軍事委員会副主席の劉華清と会談するとき、再び声を上げた。

 劉華清は、海軍司令を務めた後、昭和六十三年四月、中央軍事委員会副主席に就任、余秋里と同じように軍のなかで強い影響力を持っていた軍人である。三岡が劉華清と会談した翌年、鄧小平から江沢民への権力継承が行われ、そのときの第十四回党大会で劉華清は軍事委員会で二番目、政治局常務委員会で六番目の地位に上る。中央軍事委員会と政治局常務委員会双方を兼任しているのは江沢民と劉華清だけである。

 その劉華清に三岡はこう質問した。

「南京虐殺記念館を案内されたが、なぜ事実でもない虐殺の記念館を建てるのか」

 対して劉華清はこう答えた。

「中国が解放される前の時代を若い人へ知らせるために行なっている。虐殺記念館は中国のなかでのことだ」

 やはりまともには答えていない。

 そのころ中国は改革開放の時代に入り、国民党と戦っていたころを知る若者はいなくなっていると言われていた。劉華清たちの言わんとしていることはわかるが、日本としてはそれで引きさがるわけにいかない。三岡はさらに三十万という数字を出して質問した。すると劉華清は黙ってしまい、答えなかった。答えられなかったと言うべきだろう。

 余秋里は日本軍を批判していたわけでない。そして劉華清の答えである。このとき三岡には鄧小平との会談がよぎった。鄧小平から始まって彼らは答えたくないときは話を切りあげてしまう。それらを思い返した三岡は、南京事件は中国内の政治的発言であり、それらを問題にする日本が間違っていると自分を納得させ、以後、問いただすことをやめた。

 中国の言うままにしてはおけないと考えた人は三岡の後にもいた。丹羽春喜京都産業大学教授たち中国を訪れた一行もそうだし、国会議員のなかにもいる。陸軍士官学校を卒業し、戦後は衆議院議員となり、建設大臣を務めた亀岡高夫は、中国の軍高官に、南京事件は作りごとであり、まして三十万人などとは、と抗議した。戦場と日本軍をよく知っている亀岡には黙せないことであった。

 すると軍高官から、日本社会党の田辺誠委員長から言ってきている、と反論された。やはり衆議院議員の稲葉大和も三十万人という数字について中国軍の高官に抗議した。稲葉大和が自民党の代議士となるのは平成五年で、それ以降のことであるが、すると、虐殺記念館の建設は日本から言いだしたことだ、と言われて二の句が継げなかった。

 同じような中国側の言い訳は三岡徤次郎も経験している。盧溝橋にある反日記念館に行きあまりの残虐さに驚いた。田辺誠から言ってきている、と反論され、黙るしかなかった。

 共通点は、中国の高官が南京事件を事実だと捉えていない、三十万という数字にまともな反論をしていないことである。また、展示を追及されると、日本の記者から言ってきている、日本の政治家からの要請だと答えて逃げるということだ。中国高官は事件を事実と見なしていないのだ。

■ 鄧小平も南京事件をよく知らない

 それでは南京虐殺記念館が建てられたとき館名を書いた鄧小平が南京事件をよく知っていたかといえば、これもそうではない。

 昭和十二年七月に支那事変が始まり、八月、中国共産党の軍事組織である紅軍は国民革命軍第八路軍に編成される。このとき鄧小平は八路軍の総政治部副主任に任命される。九月、鄧小平は山西省に向かい、山西省に作られた民族革命戦争戦地総動員委員会の八路軍の代表に就く。十月、日本軍は山西省に攻め入り、省都太原を陥落させる。日本軍と戦った閻錫山の支配組織は急激に崩壊していき、代わりに共産党が勢力を広げる。南京が陥落するころ、鄧小平は日本軍と正面から対峙せずに山西省の西部、南部と移動していた。

 年が明けた一月十八日、鄧小平は第百二十九師団の政治委員に任命される。第百二十九師団司令部は山西省東部の太行山の麓にあり、鄧小平は一帯で師団長の劉白承とともに日本軍との戦いの準備を進める。

 このように鄧小平は支那事変が始まると前線で共産党軍を指揮し、それに追われていた。その地位からさまざまな情報が入り、南京陥落も知ったであろうが、奔走していたのは山西省であり、そのころ漢口の新聞に載った南京事件も知らなかっただろう。

 戦後、鄧小平は文化大革命で失脚、昭和四十八年、副総理として復帰、昭和五十二年に復権が決議された。三岡徤次郎が鄧小平と会ったのはこういうときである。

 鄧小平の復帰と並行するように、昭和五十年、蒋介石が死亡、昭和五十二年一月、周恩来が亡くなり、九月、毛沢東が亡くなる。南京事件について知る人たちが亡くなって数年、初めて南京事件が中華人民共和国で語られるようになる。日本軍が南京を攻めてから四十四年も経っていた。

 鄧小平の側近といわれた劉華清ですら三岡の質問に答えられなかったことは鄧小平が知らなかったことを如実に表しているが、ともあれ鄧小平が揮毫したとなると、公に事件を否定することはできなくなる。たとえ劉華清でも公然と否定することはできない。

■ 田辺誠は中国に何を吹き込んだか

 それにしても、中国人の口から田辺誠という日本人の名前が出てくる。田辺誠はなにを根拠に言っているのか尋ねなければならない。

 田辺誠は全逓労組を基盤に群馬県選出の衆議院議員になった。昭和五十七年十二月に日本社会党の副委員長に就任、五十八年二月に書記長を兼務する。五十九年二月に書記長専任となり、平成三年に委員長に就いて平成五年まで在任した。この間、昭和六十二年と平成元年に北朝鮮を訪問、平成二年、自民党、社会党、朝鮮労働党との間で共同宣言が行われたときの社会党の代表である。共同宣言をあらためて引用する。

「三党は、日本が過去において三十六年間、朝鮮人民に大きな不幸と災難を与えた事実と、戦後四十五年間、朝鮮人民に蒙らせた損失に対して朝鮮人民共和国に公式に謝罪し、十分に補償すべきであると認める」

 言い添えれば、田辺誠は、昭和十八年に徴兵され、予備士官の道を進み、終戦のとき千葉県稲毛にある戦車予備士官学校に在学中だった。

 平成十一年、私は田辺誠に、お目にかかって話を伺いたいとお願いした。電話口で田辺誠は、「電話で話をしたい」と言う。電話越しでできる話ではないが、面会を強要できるものでない。そのため電話での質問となったが、やはり十分といえず、あらためて電話を差しあげることになった。平成十一年十一月二十八日と十二月七日の二回にわたった質問と答をまとめるとこうなる。

 ――田辺議員から南京事件は事実だと言ってきた、と中国側は言っていますが。

 田辺「パールハーバー五十周年のさいに日本の反省を述べたことはあるが、南京事件については知らないので、中国に対して南京事件について言ったことはない」

 ――亀岡高夫議員が中国から聞いていますが。

 田辺「亀岡さんは親しく、知っています。養蚕議員連盟で一緒だった。しかし、亀岡さんと南京事件について触れたことはありません。君から手紙をもらったので、昔を思い出そうとしているのだが、まったく思いうかばない。

 議員では、同じ厚生委員会で斉藤邦吉、橋本龍太郎と親しかったし、安倍晋太郎、金丸信、竹下登とは政治の上で付き合って親しい。彼らとは親しかったが、それと比べれば亀岡さんとはそれほど親しいわけではない。そういう関係です」

 ――盧溝橋の展示について、これも田辺議員から言ってきたと中国側は言っていますが。

 田辺「三岡さんという人を知らない。展示館に行ったとき署名はしたがそれだけで、歴史は詳しくないのでそういう発言はしていない。歴史の事実関係を調べるつもりもない。

 亀岡さんも三岡さんも士官学校出身らしいが、私も予備士官学校に行った。同じといえば同じだが、私が朝鮮や中国と関係があったので、そう言うのではないか」

 電話越しなので、微妙なところはわからない。微妙なところがわからないので、質問は簡単だが、二度の電話となった。

 誰かがまともに答えていないのだろう。中国高官か、亀岡高夫や稲葉大和か、あるいは田辺誠か。田辺と答えた中国高官は同一人物ではない。亀岡高夫と稲葉大和のあいだに関連はない。だとすると、まともに答えていないのは?

 ともあれ習近平が南京事件を信じていないことはたしかだ。

■ 失策続きの外務省への最後通牒

 ユネスコの決定まであとひと月と迫った九月七日、われわれは外務省を訪れ、早急に対応するよう求めた。その際、「南京事件のユネスコ記憶遺産申請に抗議する」と題する文書を担当者に手渡した。ひと月ほどまえに作成したもので、その最後に私はこう書いた。

「登録決定を二か月後に控え、この問題に立ち向かうべきは日本政府以外にない。日本政府が第一に行うべきことは南京事件が架空であることを認識することである。そして第二に、最近認識しはじめた対外広報の必要性を発揮することだ。じっくり発揮するというのでは遅い。国を挙げていますぐに発揮すべきである。万が一登録されたなら、責任は政府にあることを肝に銘じて行動せよ」

 ここに至っては政府が直ちに全力挙げて働きかけるしか方法は残されていない。日本はこれまで世界二位という分担金を拠出し、ここ数年はアメリカが国内法との兼ね合いで拠出していないため日本が一位となっていた。かつて日本は事務局長も務めたこともあり、いくらでも動けるはずである。

 外務省の言い分によれば、国際諮問委員会の十四人に働きかけるが、彼らは公文書保管の専門家などで働きかけを嫌うという。しかし歴史の専門家でないなら、それこそきちんと説明すべきではないのか。南京事件の登録は、世界文化遺産での明治日本の産業革命遺産の際と同じように日本の失策であり、責任はいつに外務省にある。

あら・けんいち 昭和19(1944)年、仙台市生まれ。東北大学文学部卒。レコード会社勤務をへて近現代史研究家に。「中国の抗日記念館の不当な写真の撤去を求める国民の会」会長などを務める。著書に『「南京事件」日本人48人の証言』『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』『日中戦争はドイツが仕組んだ――上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ』『秘録・日本国防軍クーデター計画』など。

http://ironna.jp/article/2563

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