2014/08/16 16:27

拉致被害者全員の帰国を必ず実現させる。新たな拉致疑惑が生ずれば、必ず交渉の俎上に載せる。最後の一人が帰ってくるまで、問題の幕切れは無い、との強い姿勢で交渉に臨まなければなりません。期待しています。

《【ニッポンの分岐点】日朝関係(3)小泉訪朝 「単身で敵地」拉致動く》
2014.08.16 産経新聞

 日朝関係は平成14年、歴史的な節目を迎える。首相の小泉純一郎の訪朝だ。北朝鮮は拉致を正式に認め、日本側に謝罪。10月15日には拉致被害者5人の帰国という成果を得る。一方で、「8人死亡」という衝撃的な報告がもたらされ、拉致事件の全容解明には至らなかった。

■ 悲壮な覚悟

 13年4月に発足した小泉政権は同年夏の参院選で大勝し、政権基盤を着々と固めていた。

 その陰で、外務省アジア大洋州局長の田中均は同年晩秋から極秘裏に北朝鮮と交渉を始めていた。窓口役となったのは、日本側が「ミスターX」と呼んだ人物。田中は最高指導者である総書記、金正日(キムジョンイル)に通じる人物と判断し、中国などで接触を重ねながら、拉致問題の解決、国交正常化に向けた準備交渉を進めた。

 小泉の訪朝は、官房長官の福田康夫が14年8月30日、電撃的に発表した。この日以降、首相官邸では訪朝の準備が本格化する。

 首席首相秘書官だった飯島勲(68)=現内閣官房参与=は、約120人の報道陣の取材を北朝鮮に認めさせるなど持ち前の辣腕をふるっていた。対照的に、警護官(SP)や同行の職員数は最小限に抑えた。「単身で敵地に乗り込んで話をつける」。小泉の悲壮な覚悟の表れだったという。

 同行する政治家は官房副長官の安倍晋三(現首相)だけ。通訳を除き、その他は首相秘書官の別所浩郎、外務審議官の高野紀元(としゆき)、田中らわずか7人だった。

 「握手するときは頭を下げてはいけないんだ。それが(映像に)映るとわびることになる。堂々としておけ」。飯島は金ら北朝鮮の要人と日本側の一行が握手する場面を想定し、同行が決まった首相秘書官らに日本人の癖である「おじぎ」をしないように忠告した。

■ 衝撃的な情報

 9月17日、平壌国際空港に着いた小泉は、首脳会談が行われる百花園迎賓館へ向かった。同館では首相、安倍、秘書官らの控室は別々に用意されていたが、飯島の判断で全員が小泉と同じ部屋で待機した。一体感を保つためだったという。

 部屋に入ってまもなく、一行に衝撃的な情報がもたらされる。北朝鮮側が拉致被害者について「5人生存、8人死亡」と非公式に日本側に伝えてきたのだ。小泉はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で「どういうことなんだ」「どのルートの情報なんだ」とつぶやいた。

 小泉は午前の首脳会談の冒頭、無言を貫き、報道陣の退出後に「強く抗議する。家族の気持ちを思うといたたまれない」と金に迫った。

 昼の休憩は、飯島が東京・銀座で調達したにぎり飯だったが、小泉はほとんど口にしなかった。随員の一人が控室のテレビの音を小さくしようとしたが、小泉が「そのままでいいんだ」と声を荒らげる場面もあった。テレビの音が大きければ盗聴されにくいことを小泉は知っていた。「終始冷静だった」(首相秘書官の一人)という小泉だが、神経は張り詰めていた。

 この時点で、金は拉致自体を認めていない。「拉致したという白状、謝罪がない限り、日朝平壌宣言への調印は考え直すべきだ。認めなければ、席を立って帰国しましょう」。安倍が強い口調で小泉に迫る。小泉は最終的に安倍に同調し、日本政府の方針が定まった。

 田中らは非公式の安否情報リストを入手し、分析を急いだ。リストには死亡日が記載されていたが、同じ日に亡くなるなど不自然な点が多かった。この重要情報は「未確認」を理由に日朝平壌宣言の署名直前まで小泉には伝えられず、後に外務省による「情報操作」と批判されることになる。

 午後の首脳会談で、金は「妄動主義者と英雄主義者」がやったと拉致を認め、「おわびしたい。二度と許すことはない」と謝罪した。この言葉で小泉の強硬姿勢は薄れ、同宣言への署名を決断した。

■ 思わずこぼれた涙

 小泉訪朝から約1カ月後の10月15日。内閣官房参与だった中山恭子(74)=現参院議員=は午前7時過ぎ、拉致被害者5人の迎え役として全日空のチャーター機で平壌へ飛んだ。

 中山の回想によると、外務省は当初5人については、北京経由の定期便で帰国させようとしていた。だが、中山が「政府が守れなかった人たちなんです。チャーター機でなければ迎えになど行けません」と強く反対。中山の意をくんだ安倍が外務省と交渉し、ようやくチャーター機の使用が決まったのだった。

 中山は、空港の待合室で5人と面会する。5人は大きな声で「おはようございます」とあいさつした。中山は、はっきりとした発音の日本語を聞いて安心し、「日本の心を失っていないと直感した」と振り返る。

 チャーター機に乗った5人は窓際に座った。日本海を渡り終えるとき、拉致被害者の一人、地村富貴恵が「あれ、若狭湾じゃない?」と声を上げた。5人は一斉に窓の外に視線を向け、食い入るように日本の陸地を見つめていた。

 5人は北朝鮮で「日本に帰国したら国民から歓迎されない」とすり込まれていたという。だが、羽田空港に着くと、多くの人々が帰りを待っていた。戸惑う5人。地村はとっさに「みんな、がんばって降りましょう」と声をかけた。それが合図となり、5人はゆっくりとタラップを降りた。真下には肉親や友人が集まっていた。中山は、思わず涙がこぼれた地村を「大丈夫よ…」と励ました。

 小泉は16年に再訪朝し、北朝鮮に残されたままだった拉致被害者の家族を帰国させることに成功した。しかし、拉致被害者全員の帰国を求める家族会の反発は強く、「日朝平壌宣言の履行を優先している」などと厳しい批判を浴びた。

 この後、日本側は拉致被害者の再調査を強く求め続ける。これに対して北朝鮮は「拉致は解決済み」との立場を繰り返してきたが、今年5月に再調査を受け入れ、7月から再調査が始まった。

 中山は「今度こそ、もっと大きなチャーター便で拉致被害者全員が乗って、何百人になるか分からないぐらいの大勢で日本の土を踏んでもらいたい」と訴える。再調査の結果は9月上旬にも示される。=敬称略、肩書は当時(山本雄史)

【用語解説】日朝平壌宣言 平成14年9月17日、小泉純一郎首相と金正日総書記が平壌で署名した。拉致問題を「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」と表現し、北朝鮮は再発防止へ「適切な措置を取る」と約束した。国交正常化交渉の再開、「不幸な過去の清算」が明記され、日本は国交正常化後の経済協力を表明した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140816/plc14081612150012-n1.htm