2006.06.15 : 平成18年財政委員会
〇吉田委員
お疲れさまでございます。
私からは、付託議案の第百七十号議案、都有地の不法占拠者に対する工作物収去土地明渡等請求訴訟事件に関する和解について、これに関連して幾つか質問を申し上げたいと思います。
まず、当該案件、枝川一丁目の土地の成立の過程、そしてどのような経緯で簡易住宅や道路が設置されたのか、伺います。
〇三津山特命担当部長
吉田委員のご質問にお答えいたします。
本件地のある枝川一丁目は、大正四年九月に当時の東京市が埋立免許を取得後、埋立工事を行い、昭和三年四月に埋立竣工したものでございます。
旧東京市枝川町簡易住宅は、当時の記録によりますと、周辺の埋立地及び道路敷の管理の適正化を図ることを目的といたしまして、これら周辺の土地を不法もしくは無償にて占拠していた主として朝鮮半島出身者を居住させるため、昭和十六年七月、市有地である枝川町一丁目九番地に設置した住宅施設というものでございます。
また、住宅敷の外周道路は、住宅設置に先立って昭和五年十二月に東京市道として供用が開始されたものでございます。
〇吉田委員
この地域は、戦前においては、きちんと市営住宅の家賃が取れるなど適正に管理がなされていましたけれども、敗戦後、住宅及び道路が不法に占拠されることになったと聞いております。その経緯について伺います。
〇三津山特命担当部長
昭和二十年三月十日の米軍による空前絶後の大空襲によりまして、東京の下町、特に江東区は全焼いたしましたが、枝川一丁目は奇跡的に焼失を免れました。そのため、生き残り、焼け出された多数の人々が枝川地区に流入いたしまして、簡易住宅に入りきれないほどの状態となったと聞いてございます。
〇吉田委員
そのような状況の中で不法占拠がされていた。そういう状況において、当時の住宅及び道路の管理者の対応及び管理についての努力について伺います。
〇三津山特命担当部長
旧枝川町簡易住宅につきましては、要求資料第4号のとおり、昭和五十三年に住宅局が地元の住民代表と話し合いを持ったという記録がございますが、その前後の期間の管理状況、経緯等については不詳でございます。
また、道路敷についても、昭和三十六年四月に江東区へ移管されて以降、要求資料第4号にありますとおり、除却命令等を発送したとの記録がございますが、それ以外、同様に管理状況、経緯等について明白ではございません。
〇吉田委員
この後、平成十一年の十一月になりまして、随分時代がおりてくるんですが、知事決定により旧枝川町簡易住宅用地等の適正化処理方針というのが定められまして、以降、簡易住宅用地を不法占拠者に売り払っていったと理解をしております。
また、この方針が定められたとほぼ同時期の平成十一年七月、不法占拠者の一人、羅忠燦氏が、枝川一丁目住宅敷裁判を起こしたと聞いております。
同方針が定められるに至った経緯と方針の内容について、また、この枝川一丁目住宅敷裁判に関連して、裁判に至るまでの経緯と裁判自体の経緯、和解の内容とその理由について、それぞれお伺いします。
〇三津山特命担当部長
平成四年第三回東京都議会定例会における代表質問によって、不適正財産の処理促進の要請を契機といたしまして、平成五年度に枝川町簡易住宅用地等の適正化に向けまして関係部局による協議が始められ、またこれと並行いたしまして、平成七年より住民代表と売り払い交渉を行い、平成八年には、財務局に専管組織が設置されました。
住民との交渉に際し、住民側の主張は一貫しまして無償、都は底地価格による売り払い条件を示しましたが、六十回以上の交渉にもかかわらず合意に至らぬまま、平成十一年七月に、住民の一人が都を相手に土地所有権確認訴訟を提起いたしました。
当初、相手方は時効取得を主張いたしましたが、都はそれに対する反論を展開いたしました。裁判所における協議の中で、都は、更地価格の一〇%、相手方は無償を和解条件として提示いたしました。その後、双方が歩み寄るも、なおその乖離が埋まらないため、裁判所は、登記費用を除き、土地代金や損害賠償金など一切合財を含め、更地価格の七%で解決するとの和解勧告を発しました。
都といたしましても、検討を重ねた結果、原則として売り払いによる適正化を進めることとしていたことや、相手方の時効取得の完成を裁判所が認める可能性があると判断したことなどから、和解が妥当と判断し、当該条件にて土地の売り払いを行うに至ったものでございます。
なお、都を相手としました住民による土地所有権確認訴訟の提起がなされた直後の平成十一年十一月、知事決定により旧枝川町簡易住宅用地等の適正化処理方針が定められまして、それに基づいて本格的な適正化の取り組みが行われることとなりました。
〇吉田委員
これは、都や区が適正に、適切に管理をしてこなかった。管理状況、経緯等も今となっては明白ではないということですが、要求資料第4号、これはきちんと時効の進行をとめるような、いかなる努力をしてきたのか、それについて資料を出してくださいと。簡単にいえば、いろいろございますが、時効の進行をとめるような措置は、都も江東区も講じてこなかったということをこれは示している資料なわけで、その結果、時価の更地価格の七%で和解という結果に至ったんだというご説明だと理解しております。
次に、本件の区道敷の訴訟の相手方と、訴訟を提起する前に住宅敷と同様に売り払いの交渉を行っていたと思いますが、その交渉の経過を伺います。
〇三津山特命担当部長
南側旧区道敷は住宅敷と異なる占有の実態であることから、住宅敷と同一条件で売り払いによることは妥当でないと判断いたしまして、平成十三年ごろより、個別の交渉を行うことになりました。
平成十三年九月、東京都は、一億六千九百二十八万円という金額を示しましたが、相手方は、金額が高い旨を主張いたしまして、折り合いがつきませんでした。
平成十三年十二月、東京都は一億五千万円という金額を再度示しましたが、相手方は八千万円を希望し、また、折り合いがつきませんでした。
引き続き交渉を進める中、平成十四年一月、東京都は、相手方に対しぎりぎりの案として非公式に、今回の和解金額のもととなる八千五百万円という金額を示しました。その後、双方の歩み寄りが見られなかったため、平成十六年十月、状況の打開を図る必要から、東京都は訴訟により解決を目指すこととなったものでございます。
〇吉田委員
続いて、その訴訟の概要並びに和解の内容について伺います。
〇三津山特命担当部長
平成十六年十月、相手方に対しまして土地の明け渡しを求める訴訟を提起いたしました。相手方は、長期間にわたる占有の事実をもって本件地には取得時効が成立している旨を主張いたしまして、東京都はそれに対して反論を展開いたしました。
裁判の進行の中で、和解に向けた話し合いに移行し、相手方より、過去の交渉時に東京都から非公式に提示いたしました八千五百万円で買い受けたい旨の希望が出されました。裁判所からも、本件は和解相当事案であるという認識が示されまして、平成十八年四月、基本了解に達しました。
和解の内容につきましては、土地の売り払い金額は過去の交渉の中で非公式に示しました八千五百万円、さらにそのほかとして、本件地が江東区から東京都に返還された平成十四年七月八日から和解日の前日、来月七月二日までの土地使用料に相当する損害賠償金一千五十六万円を和解金として東京都に対して支払うというものでございます。
〇吉田委員
済みません、もう少しおつき合いいただければと思います。
これは和解によって土地を八千五百万円で売り払うということですが、この金額の算出の根拠はどのようなものでしょうか。
〇三津山特命担当部長
売り払い金額でございます八千五百万円は、本件地の更地価格である約三億四千五百万円に七五・五%の減価率を乗じたものでございます。これは交渉時の平成十三年当時に時限的に定められました売り払い基準を適用したものでございます。
〇吉田委員
これは内々でご説明を伺っている中では、もう特例に特例を重ねた減価率であるというふうに伺っております。何でこのようになるのかということも後ほどご説明いただけると思うんですが、これに関連して、本件に隣接をしています橋台敷の土地について、過去に売り払いを行ったというふうにお聞きしております。その条件、すなわち減価率等がどのようなものであったか伺います。
〇三津山特命担当部長
本日の要求資料第3号の図面、明細図の本件地2の駐車場の右隣でございますけれども、枝川一丁目十五番五の橋台敷につきましては、本件相手方の父である徳山徳鳳に対しまして訴訟を提起した結果、昭和四十五年に訴訟上の和解によって土地を売り払ったものでございます。
その売り払い条件は、当時の売り払い基準を適用いたしまして、更地価格の三四%というものでございます。
〇吉田委員
今のご説明から、本件土地の隣接地は昭和四十五年に本件の相手方でございます卞鐘出氏の父親の卞徳鳳氏に売り払ったということでございますが、隣接地を占有状況が同じような本件の土地に関して、当然隣接地と同一の条件で売り払いをされるべきと考えますが、なぜそうならなかったのかを伺います。
〇三津山特命担当部長
本件地隣接地の売り払いにつきましては、道路の占用許可の期間の更新が認められなかった結果、不法占有となった土地でございます。
一方、今回の売り払いは、相手方の長期間にわたる占有状態を前提としたものでございます。
したがいまして、本件地と隣接地とはその占有の実態が異なっているため、本件土地に対して隣接地の減価率を適用することは妥当ではないと存じております。
〇吉田委員
つまり東京都は、昭和四十二年に本件地に隣接する橋台敷の土地については土地明渡請求訴訟を提起して、昭和四十五年に和解して売り払いを行っていながら、他の不法占拠状態にある都有地については、それを解消するための有効な手だてを何も講じてこなかったということだと認識します。
枝川一丁目住宅敷裁判においては、時価のわずか七%で払い下げることになり、その後の住宅地すべて七%で払い下げていくということになった訴訟の原告の羅氏は、この昭和四十五年、まさしくこの年に土地を所有の意思を持って平穏かつ公然と占有し始めたと訴状で主張いたしました。また、本件の和解の相手方でございます卞氏は、昭和五十八年から、本件地を所有の意思を持って平穏かつ公然と占有し始めたと主張をしております。
さきにご説明をいただいたわけですが、善意で十年、悪意で二十年という時効の進行をとめるために必要な有効な措置を東京都は何も講じずに、何十年も見て見ぬふりをしてきた、これは区も含めてです。これはもう本当に行政の怠慢であり、これは許されないことだと私はいわざるを得ません。
区道敷については、一義的には区に、江東区に責任がある。しかし、都が責任を免れられるわけではありません。区も怠慢でありましたが、都は区に対して、不法占拠されている土地を道路区域から除外して都に返還させるように働きかけるなど、さまざまな助言指導ができたはずであると考えます。実際に、この昭和四十二年の橋台敷というのは、区から都に移管をされて、これを都がきちんと提訴したというものであります。
時価で払い下げるというのであれば、全く何の問題もありません。しかし、都民全体の財産であります都有地が、都の怠慢が原因でたたき売りのような金額で、不法占拠を続けた人のものになってしまうということは、これは絶対にあってはならないことでありまして、今後、このような怠慢は二度と許されないと私は思います。
いろいろ関連の資料をいただきました。ここは本当に複雑な過去の経緯を持ったところで、例えば深川事件だとかどぶろく事件だとか、あるいはメーデー事件だとかさまざまな事件があって、ちょっと日本の中では、治外法権とはいいませんけれども、大変な状況にあった時代もあるやには聞いておりますが、しかし、そういうことをもってして、平成十一年まで、あるいはご説明ありました平成五、六年まで何もしてこなかった。これは責任者は、美濃部亮吉知事の時代、それから鈴木俊一知事の時代です。このときに、大変財務局には申しわけない、住宅局の管轄だったときのことですから、しりぬぐいをさせられる財務局の皆様は本当におかわいそうというかお気の毒というか、思いますけれども、今現在、本件以外の都有地で、現に不法占拠が続けられ時効が進行するというような状況にある土地がないのか、ぜひ他の局にも働きかけていただいて、あるいは区市町村にも働きかけていただいて、総点検をしていただいて、もしそのような物件が今現に存在するのであれば、必ず早急に適切な措置をとっていただかなければならないと私は強く強く要望させていただきまして、質問を終わります。