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「南京大虐殺」の捏造を続ける朝日新聞
未だに「南京大虐殺があった」と必死にプロパガンダする朝日新聞。 捏造について冷静な直視の姿勢を示し、直ちに廃刊して下さい。 しないでしょうから、皆で精一杯、廃刊のお手伝いを続けます。 「慰安婦強制連行虐殺」「福島原発東電社員逃げ出し」の捏造に続き、本件はいつ全面謝罪する事になるのか、楽しみにしています。 ◇ ◇ ◇ 《(社説)南京事件80年 冷徹な直視の姿勢こそ》 2017.12.17 朝日新聞 南京事件は、日中戦争の初期におきた。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、捕虜や一般市民を数多く殺害した。 それから80年。この事件は今も日中間の火だねとなる歴史認識問題の一つとなっている。 13日の南京での追悼式典には習近平(シーチンピン)国家主席が3年ぶりに出席したが、演説はしなかった。節目の年に歴史を重視する姿勢を見せつつ、日本への刺激は避ける配慮を示したようだ。 日中関係はいま、確かに改善傾向にある。冷静に歴史問題を見つめることができるようになったと考えたい。 事件については、犠牲者の人数が主な争点にされ、議論がこじれがちだった。中国では、戦後の南京での軍事裁判の判決を根拠に「30万人」が公式見解となり、政治の指導者もたびたび言及してきた。 だが、その裏付けは不十分と考える歴史研究者は中国でも少なくない。ただ、公開の場やメディアで発信できないため、多様な見方が日本に伝わらない。 一方、日本では数万から20万人まで見方が分かれるが、事件自体を否定する歴史研究者はまずいない。当時、軍紀の乱れが深刻な問題になったことが記録や証言に残っており、事件は否定しようがない。 出版物やネット上では、事件がなかったかのように扱う論調が以前からあり、近年強まっている感がある。この風潮が日本の主流の考えであるかのように中国で扱われることもある。 加害者・被害者の立場の違いに加え、言論や学問の自由をめぐる違い、そして時に政治的な思惑も絡み、互いに理解を妨げている現実がある。静かな環境で研究と交流が日中間で進むよう望みたい。 そもそも、人数は史実の重要部分ではあっても、歴史から教訓を学ぶうえでは必ずしも問題の本質とはいえない。 何万人が死んだ、ということではなく、一人一人が死に、それが何万にも上ったのだ――。南京事件のただ中に置かれた中国の知識人の日記の形をとった堀田善衛の小説「時間」は、主人公にこう語らせている。 80年も経てば証言者は減り、記憶は風化する。日本にとって恥ずかしい過去を表に出すのを拒もうとする力は、今後さらに強まるかもしれない。 しかし、過去を直視できないとすれば、それが真に恥ずべきことだ。不戦を誓う平和国家としての戦後の歩みを誇りとしつつ、不幸な過去に厳然と向き合う姿勢を忘れてはなるまい。 https://www.asahi.com/articles/DA3S13277464.html
上下逆さの「モンゴル語」の碑
南モンゴル。今、共産党独裁中国に支配されているモンゴル人の土地。 この石碑、左に「中国語」、右に「モンゴル語」が刻まれているのだが…、 このモンゴル語は上下反対になっている。 モンゴル人の知人が、「こんな事はざらだ」と言う。 左翼の言う通りに米国から離れ、中国共産党の良心に期待して自衛隊を軍隊にもせず、守りを疎かにして話し合いだけに縋っていれば、我が国の人口の多くをサンフランシスコ市の様に中国人が占める様になり、今以上に政治もメディアも支配され、歴史の捏造に阿る売国政治家や似非学者、芸NO人が水を得た魚の様に跋扈し、「日本語を話すのは中国系住民に対する差別だ」と言い始め、それらの住民を「解放」する為に到来する外国軍に抵抗できず、いつしかウイグル人やチベット人やモンゴル人の様に、国と言語と宗教と文化と自由と人権と、全てを失う事になる。 身をもって知っている彼らが、そう我々に警告しているのだ。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1566190493471446&set=a.221385994618576.53057.100002415323089&type=3&theater
守る。
また、「自衛隊を軍隊にすると戦争になる」「子供を兵隊にしてはならない」と言う人がいました。 自衛隊を軍隊にしなくても、子供を兵隊にしなくても、外国が日本を攻撃する時は戦争になり、子供も殺されるのです。 抵抗の仕方も知らずに殺されるか、少しでも抵抗して被害を減らせるかの差だと分からない。 戦後、日本人は、有史以来最も馬鹿になりました。 日本海に面していないのに、戦闘機や爆撃機を侵入させ始めた共産中国の目的は何か。そこで戦争をする準備以外には無い。そして共中は、世界で最も武力行使の閾値の低い国です。 ◇ ◇ ◇ 《中国軍5機が対馬海峡を通過 戦闘機は初 空自機がスクランブル 韓国軍機も》 2017.12.18 産経新聞 防衛省統合幕僚監部は18日、中国軍のスホイ30戦闘機など計5機が同日、東シナ海から対馬海峡を通過し日本海を往復飛行したのを確認したと発表した。航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)した。領空侵犯はなかった。中国軍の戦闘機が対馬海峡を通過して日本海に飛来したのは初で、防衛省で目的を分析している。 統幕によると、5機はスホイ30戦闘機2機とH6爆撃機2機、TU154情報収集機1機。東シナ海から対馬の南方を通過して日本海へ抜けた後、同じルートを引き返した。中国軍機が同ルートを飛行したのは、今年1月にH6など計8機が確認されて以来となる。 また、バシー海峡から飛来した中国軍のY8電子戦機が沖縄本島と宮古島間の上空を抜け、中国本土方面へ飛び去ったのも確認された。空自の戦闘機が緊急発進して対応した。 韓国軍合同参謀本部も18日、中国軍機5機が韓国と日本の防空識別圏に侵入し、韓国の複数の戦闘機が緊急発進したと明らかにした。中国軍機の韓国の識別圏への侵入は今年1月に10機余りが飛来して以来。 聯合ニュースによると、5機は中韓双方が管轄権を主張する韓国南部の岩礁、離於島(中国名・蘇岩礁)西南から韓国の識別圏に侵入。日本海上の日本の識別圏で旋回し、再び韓国の識別圏を通って中国側に戻った。韓国軍の警告に対し、中国側は「日常的な訓練であり、韓国の領空には入らなかった」と応じたという。 写真:対馬海峡を通過したことが確認された中国軍のH6爆撃機(左)、TU154情報収集機(中)、スホイ30戦闘機(右)(防衛省統合幕僚監部提供) http://www.sankei.com/politics/news/171218/plt1712180046-n1.html
日本人のルーツがまた少し明らかになりました。
日本人のルーツがまた少し明らかになりました。 ◇ ◇ ◇ 《「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!》 2017.12.15 読売新聞 伊藤譲治 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤成也(なるや)教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。 ■ 世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。 (写真:縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る) 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。 ■ 福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯)1本ずつを取り出し、提供してくれた。 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。 (図:縄文人と現代東ユーラシア集団との遺伝的近縁関係(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)) 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。 ■ アジア集団の中で最初に分岐した縄文人 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏で海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。 ■ 分岐した時期は2万~4万年前の間 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万~4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。 (写真:インタビューに答える斎藤成也・国立遺伝学研究所教授(静岡県三島市で)) また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原和郎(1927~2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。 ■ 遺伝的に近かった出雲人と東北人 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。 ■ 日本列島への渡来の波、2回ではなく3回? 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。 ■ 弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」 (写真:沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨) 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。 http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html
実績や事実を国際的評価に結び付けられない日本
NHK「脱炭素革命の衝撃」、相変わらず「外国は偉い」「日本は駄目」の印象操作に加担。 我が国の地球環境対策への取組みの実績、技術、システムは素晴らしいが、政府も民間も、他の分野同様、世界でそれを理解させるパフォーマンス芸ができず、口だけ大風呂敷の世界最悪の環境破壊国家中国等に良いイメージを奪われ、外交上もビジネス上も多大な損失を招いている。 特に、環境投資を利潤のあるものにする為の枠組み作りをする責務を有する政府の無策の責任は重い。