石井望 長崎純心大學准教授、尖閣史まとめ。
「尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐた」
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《周恩來が尖閣不干渉を宣言 事實を廣めてデマを阻止せよ》
2018.01.02 尖閣480年史 いしゐのぞむブログ石井望:長崎純心大學准教授。笹川平和財團海洋政策研究所島嶼資料センター島嶼資料調査委員。日本安全保障戰略研究所研究員。内閣官房領土室委託尖閣資料調査事業特別研究員。
田中角榮が周恩來と尖閣棚上げで合意したといふデマが流布し、
ここ數年來の輿論乃至政策に大きな影響を與へてゐる。
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=10m20s
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=12m20s
(ニュース女子、十分半と十二分半)記録原文(下方リンク)を見れば、
明らかに周恩來がわざわざ尖閣不干渉を宣言してゐる。
それを承けて日本側は何も言ってないのだから、
領土問題存在せずと確認できたわけである。
「田中角榮がもう一押し確約を取りつけるべきだった」
と考へるならば大間違ひである。
完全無缺の日本領土について、
外國から何らの確約も取りつけてはならない。しかもこの時、周恩來は臺灣の主張も存在して良いと
しっかり認めてゐる。
チャイナ側にとっては、ヤバ過ぎる會談記録だ。
日本政府は情報公開法にもとづき公開してゐる。ところがその後、日本人は
「干渉されないなら扉に鍵かけずに置かう」
といふ空氣になってしまった。そして近年、
わざわざ空島にして、招かれざる客を招いてゐる。
惡いのは自分である。なぜそんなに弱氣なのか。
もともと清國は國境線外の尖閣を數百年間にわたり
非領有宣言し續けてゐたのに、
なぜか明治の外相井上馨も無闇と弱氣だった。
「杞憂」が常に日本を支配してゐる。
原因は歴史健忘症ではないか。尖閣には悠久の歴史が
あるのに、當局者は全く歴史を意識してゐない。
現代的な是非よりも悠久の尖閣史こそ大切なのだが、
たまには現代史料も以下に複製して置かう。
「周恩來、尖閣不干渉宣言」である。みなさん廣めて頂きたい。http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPCH/19720925.O1J.html
データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所
[文書名] 田中総理・周恩来総理会談記録
[年月日] 1972年9月25日〜28日
[備考] 情報公開法に基づいて読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された文書
秘密指定解除 情報公開室
極秘無期限 4部の内3号
(1972年9月25日〜28日)
周恩來:(上略)キッシンジャーは「台湾海峡の両側の中国人が中国は一つであると主張することにチャレンジしない」と言った。これはキッシンジャーの傑作である。ヨーロッパ問題について言えば、今、ヨーロッパの連中は平和の幻想を抱いている。しかしこれはソ連にだまされている結果である。田中総理: 尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。
周総理: 尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない。国交正常化後、何カ月で大使(館)を交換するか?
大平大臣: できるだけ早く必要な措置を講じていくが、(下略)
參考2:
ニュース女子でも尖閣棚上げ合意に皆さん弱氣だ。十分半と十二分半。
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=10m20s
https://www.youtube.com/watch?v=OFfMbUeIR0Q#t=12m20s必要なのは悠久の歴史だ。有効手はただ一つ。
歴史百對ゼロの壓倒的悠久の正義を世界に理解させることだ。
「ああさうだったのか!尖閣では最初の1534年から琉球職員がチャイナ使節船を案内し、秀吉家康の朱印船は縱軸横軸で尖閣を航行し、1600年頃に日本が作った精確な尖閣地圖は十九世紀半ばまで世界最尖端であり續け、1604年には國際法の祖グロチウスが尖閣に言及しそこね、1617年には三浦按針がチャイナを避けつつ尖閣を航行し、同年には尖閣の西側入口の馬祖列島で日明間和平合意も成り、1660年には尖閣附近で坐礁したオランダ貨物を薩摩が運んで長崎奉行から出島オランダ商館に引渡し、1719年と1800年には琉球職員が馬祖列島から早くもチャイナ使節の水先案内をして尖閣に導き、1819年には琉球王族が尖閣で公式上陸調査し、1845年には八重山航海士がイギリス人を尖閣に案内し、1867年には歐洲製地圖で尖閣の西側に國境線が引かれ、明國清國は最初から最後まで尖閣と臺灣北方諸島とを混同したままで、釣魚臺を臺灣北方諸島の西側に置くチャイナ史料が歴代の半數を占め、1461年から1872年までずっと尖閣の遙か西方にチャイナ國境線を引いてゐて、1403年のチャイナ尖閣史料は實は琉球人に教はって1573年以後に編まれたに過ぎず、臺灣の地誌に出現する釣魚臺は尖閣ではない別の島であり、琉球風水思想では首里を中心として尖閣を外縁とし、臺灣の風水は基隆から南に伸びるが尖閣へは伸びず、、、、とにかくあらゆる史實が、1895年日本編入の正義に向かって動いてゐたのだ!今悟った!」
世界がさう氣づけば九割の支持を得て尖閣常駐できる。
國際法とか軍事とか地政學とかのチャチな話ではない。