江戸時代、欧米より人間的であった日本の国柄

江戸時代の我が国の身分制は、欧米のそれとは異なる、人間性の高いものであった。ましてや朝鮮、清とは比べ物にならなかった事が分かります。

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日本の国柄(くにがら)第292号 福住蟷螂

長崎のオランダ商館に常駐していた医師たちや博物学者が「日本の裁判がきわめて公正である」と評している。藩主が領内の農民に一揆を起こされたら、幕府は藩主を厳罰に処した。幕府の高級官吏も不正があれば処罰した。庶民はどうか。「十両以上の盗みは打ち首」という刑罰はよく知られている。ところがそれでは盗まれた方が「寝覚めが悪い」らしい。役人も、五十両百両を盗まれた者に「九両五分」と届けるよう指導したという。イギリスの外交官ミットフォードが「日本は内分ということでやっている国だ」と観察した。建前の法はそのままで、実際には緩やかに「穏便に取り計らう」のだ。それが皆にとっても受け入れやすい実用的なやり方である。

近世史の尾藤正英氏は「社会の秩序というものは、侍にしろ百姓にしろ職人にしろ、各個人がその社会のなかでもつ「役」が集積して出来上がっている。『役』は『職分』といいかえてもいいが、個々人は己の職分に社会的責任を感じており、それがその人にとっての『誇り』なのだ」と捉えた(『江戸時代とは何か』)。身分の上下を気にせず、皆が自分の役割に誇りを持つ社会構造である。下位の者が上位の者に絶対服従ではない。金持ちや上流階級も庶民と同じ地区に暮らしていて、交流さえしている。庶民同士は皆同じ人間だから友だち付き合いする。助け合うからだろう、貧民窟がない。このことも西欧人は驚いている。貧しくても人間らしい楽しみを持つ余裕があった。

アメリカ人女性が華族の子女が通う女学校で英語を教えていた。『小公子』はイギリスの伯爵家が舞台だ。家族が冗談を言った時、直立不動で聞いていた使用人が思わずくすりと笑った。それを家族たちがきっと睨みつける場面がある。そのことが生徒のお嬢さんたちは全く理解できなかったという。ヨーロッパでは貴族と庶民は別人種のように差別されている。日本では使用人も家族の一員である。西欧と日本では、身分や階級の意味が全く異なるのだ。

エドウィン・アーノルドが「日本人は、いかにすればお互いに気持ちよく幸せになれるかについて、社会契約を結んでいるようだ」と書いている。社会契約は西欧流民主主義の基盤である。日本人には社会契約の観念がない。代わりに、他人への気遣い・和の精神がある。江戸時代に日本流民主主義を、それも西欧流より国民をずっと幸せにする社会制度を作り上げた、と考えられる。