普段、知る事のない、北朝鮮の炭疽菌兵器について。
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《【野口裕之の軍事情勢】90万人殺傷 水爆並の北の炭疽菌兵器 亡命兵士が持っていた謎の抗体との関係は?》
2018.01.08 産経新聞北朝鮮・朝鮮労働党の金正恩・委員長の頭の中では、農作物と生物兵器の遺伝子操作に関する認識は同じであるようだ。飢餓を回避すべく大量の農作物を実らせる遺伝子操作と、自らの指導部転覆を回避すべく大量の人々を殺戮する生物兵器の遺伝子操作を、金委員長は区別できていない。
後述する昨年暮れの韓国メディアの《炭疽菌》報道で、そう思った。
金委員長は昨年9月、北朝鮮・朝鮮人民軍810部隊に所属する《平壌生物学技術研究院》を視察した。2015年設立の技術研究院は温室などの農業設備が完備され、金委員長もトウモロコシやイネなどの農作物の品種改良成果などを見て回った、ことにはなっている。朝鮮人民軍将兵は農業や水産業にも従事するので、軍が所管する農業研究施設が存在しても不思議はない。
しかし、技術研究院が持つ「裏の顔」はもっと“土臭い”。“土臭い”理由も後述するが、技術研究院は生物兵器の遺伝子操作などを手がける軍事拠点なのだ。もっとも、技術研究院の設立以前にも生物兵器の研究・製造機関は創設されており、生物兵器開発は北朝鮮の「国技」として定着している。
■ 無色透明で浮遊し続ける炭疽菌
まずは炭疽菌の説明をする。
東京都江東区亀戸では1993年、テロ組織・オウム真理教が起こした炭疽菌を使った生物兵器テロ未遂事件が発生した。
《9.11=米中枢同時テロ/2001年》の1週間後には、米国の大手テレビ局や出版社、上院議員に炭疽菌を封入した容器の入った封筒が送りつけられた。11人が《肺炭疽》を発症、内5人が死亡した。致死率は50%と高かった。抗生物質やワクチンなどを接種しない限り、90%の確率で死亡する。
使用された「白い粉」は直径5ミクロン。人間の毛髪は100ミクロン以下で、いかに微小であるかが分かる。炭疽菌入り容器のフタを「ポンッ」と開ければ、白い粉は煙のごとく空気中に立ち昇り即、無色透明と化す。地面にも落ちず、炭疽菌は空気中を浮遊し続ける。人々はそうと気付かず呼吸し、肺炭疽を引き寄せる。
肺炭疽兵器の「悪魔性」について、米国議会・技術評価局が以下報告している。
《晴れた夜、大都市の30平方キロメートル地域に炭疽菌10キロを散布すれば、最高90万人を殺傷できる。100キロの乾燥炭疽菌の粉をまけば、被害は最大1メガトンの水素爆弾に匹敵する》
広島市に投下された原子爆弾の最大65倍前後の殺傷力を伴うと言い換えられるが、核物質でも爆薬でもない炭疽菌は、地球上の至る所に自然分布する。既述の肺炭疽は気道感染で始まるが、症例の95~98%を占める《皮膚炭疽》で説明すると理解しやすい。
高地で仕事をする林業・農業従事者らに傷口が有る場合、炭疽菌に汚染された土に触れ感染。真っ黒に変色して壊死する。炭のように変色するため炭疽なる不気味な名が付いた。ヒツジやウシなど動物の体毛にも着いており、獣医や動物産品処理従事者への罹患危険性は否定できない。
未然に防ぐ手段は? 残念ながらない。何しろ、土から菌を取り出す過程は標的にした国家・自治体内で現地調達すればよい。テロリストは探知機器・特殊犬が反応する武器や爆発物を持参せず手ぶら侵入するのだ。現時点での対抗策は、事後的な被害拡大防止体制の飛躍的充実に、ほぼ限られる。
9・11直後に使用された炭疽菌が5ミクロンだったと前述した。技術が高度なほど、菌を微小にそろえられ→浮遊時間を長くし→被害を助長する。
米国開発の炭疽菌はロシアの2分の1、テロ組織の20分の1程度と観測されている。炭疽菌の実戦化には膨大な資金+高度な科学技術が必要との証左ではある。
■ 故意の罹患で「旅行」なら…
ところが、近年の捜査・分析ではそうでもないらしい。生物兵器製造の経験がなくとも、一定の科学知識を修めていれば、インターネット上にあふれる情報を応用して製造法を編み出し、器具・材料も中古・代用品を使えば、日本の勤め人の平均年収プラスαの価格で手に入る。
イスラム過激派のテロリストが東京五輪・パラリンピックの期間中、日本で製造・散布する可能性は決して低くはないということだ。まして、北朝鮮の熟練工作員が朝鮮戦争再開で、日本で製造・散布する危険性は高い。
ハーバード大学ケネディ行政大学院の研究機関ベルファー・センターは昨年10月、《北朝鮮が生物兵器を国外で使用する時機は軍事衝突前か緒戦になる。早期に敵国内でパニックを生起させ、軍の指揮系統を混乱させる狙いがある》との研究結果を発表している。
研究結果によれば、《北朝鮮は生物兵器の散布にミサイルやドローン、航空機、噴射器を使用。あるいは罹患した人間を潜入させる》。
エボラ出血熱の特効薬開発までの間、おびただしい数の人々が亡くなった惨禍も記憶に新しい。移動速度・距離の飛躍的進化は、惨劇加速を許す。自爆もいとわぬ工作員やテロリストが、故意に罹患して「海外旅行」を敢行すれば、地獄絵図をこの世で見る。
■ わずか15年で350万人強を殺した天然痘
ところで、昨年暮れ、韓国の大手紙・東亜日報が運営するケーブル&衛星チャンネルのチャンネルAが、奇妙なニュースを報じた。
出演した韓国の匿名情報関係者は、韓国に今年亡命した朝鮮人民軍の兵士4人の内の1人が、瀕死状態にもかかわらず、炭疽菌に対応する免疫能力(抗体)を働かせた、と証言した。ワクチン接種の結果なのか、炭疽菌感染の結果なのかや、兵士の氏名・階級&脱北日付などは不明だ。
日本の情報機関筋によると、朝鮮人民軍は軍高官に炭疽菌&天然痘ワクチンの接種を義務付ける。2002年には九州南西海域で、海上保安庁巡視船の船体射撃後に自爆した北朝鮮の工作船を引き上げ、4遺体と4名分の人骨を収集。これら遺体や人骨の全てか一部のサンプルは、米国の要請で米国検査機関に送られたが、米国側の目的は予防接種歴であったとされる。明らかに米国の軍・諜報機関は朝鮮人民軍の生物兵器を警戒している。
日韓軍事筋も、在韓米軍将兵が2004年以降、炭疽菌と天然痘に対するワクチンを接種している、と明かす。
これより先は、わずか15年で350万人以上を「殺戮」した歴史を刻む《天然痘》も踏まえ、話を進める。
ソ連は冷戦中、核・生物・化学兵器を投じる西側攻撃を検討し、1990年時点で80~100トンの天然痘ウイルス製造能力も維持していた。問題はここから。91年のソ連崩壊で、科学者6万人が失職し、相当数が外国に離散した。一部細菌学者は天然痘ウイルスなどを「手土産」に、北朝鮮で研究に従事する。
韓国・国防研究院が2004年に出した分析資料では、北朝鮮は15種類の生物・化学兵器を保有。天然痘や炭疽菌に加えペストなども培養する能力を確保している。米トランプ政権も昨年12月、《国家安全保障戦略》の中で同種の分析を記した。
天然痘や炭疽菌は「古典的生物兵器」とはいえ、同時多発テロは無論、潜伏期間が「波状多発テロ」を可能にする。
初期の肺炭疽感染は、インフルエンザといったウイルス性呼吸器感染や気管支肺炎に酷似する。が、第2段階で突然呼吸困難などをきたし死に至る。
日本では、ほとんどの医師は生物兵器への知識・治療法を身につけておらず、症状の向こうに潜む生物兵器を見抜き→正しい治療ができない。
しかも天然痘は、世界保健機関(WHO)が1980年に根絶を宣言。天然痘ウイルスは、米国疾病制圧予防センターとロシア国立ウイルス学バイオテクノロジー研究センターの2カ所のみ保管を認められた。事実上の根絶を受け、わが国も76年、種痘=ワクチンの定期予防接種を廃止したが、世界中で免疫力ゼロ世代が激増したのだ。
■ 遺伝子操作を加え「より邪悪な新兵器」へ
古典的生物兵器ですら恐るべしだが、古典的生物兵器は《遺伝子組み換え技術》で「最先端生物兵器」へと激変する。遺伝子操作でワクチンを拒む変異ウイルスをテロ国家・組織が開発・散布すれば、新ワクチンの完成→薬効確認の間、感染は勢いを極大化する。
実際、ソ連は抗生物質=ペニシリンで適正に治療を行うと致死率を10%未満に抑えられる炭疽菌に遺伝子操作を加え、「より邪悪な新兵器」に仕立てた。さすがだ。《生物培養特務室》を創設(1921年)し、「虐殺を自然死に見せかける研究」を重ねたソ連指導者ウラジーミル・レーニン(1870~1924年)のDNAを、しっかりと受け継いでいる。
冒頭で、金正恩・委員長の頭の中では、農作物と生物兵器の遺伝子操作に関する認識は同じ、と述べたのは以上のような「より邪悪な新兵器」が念頭にあったためだ。
生物・化学兵器攻撃はもはや、「起こるかもしれない」ではなく、「いつ起こるのか」にシフトしたのである。
平成13年12月に海上保安庁巡視船との銃撃戦の末、沈没した北朝鮮の工作船。米側は生物兵器を警戒し、遺体の予防接種歴を調べたという。14年10月に引き揚げられた=鹿児島市http://www.sankei.com/politics/news/180108/plt1801080002-n1.html